第2話 敵の目

 ◇◇◇



 帝国歴1917年02月14日 04時30分

 最前線 第四セクター突出部



 戦闘塹壕は寒く冷たい。支援塹壕などの二列目以降の塹壕とは違い、コンクリートでの補強が追いついていないからだ。

 一番前で敵を受け止める戦闘塹壕は、つい二週間前まで敵が使っていた塹壕である。奪った塹壕に、向きを引っくり返して土嚢や梯子を置いただけの代物だった。


 僕らヴァルムート鋼鉄帝国軍と、敵たるルテティア自由連邦は、この平原でたかだか四キロメートル半の距離を奪ったり奪われたりしながら、二〇万人の死体を泥に変えている。

 うっかり補強なんてしてしまったら、僕らがカチコチの死体になった後、自由連邦兵がぬくぬく過ごしてしまうのだ。


 木の板で壁を補強しただけの、泥水に満ちたカス塹壕。

 僕は水から逃れようと、射撃のために壁に掛けられた梯子に腰を下ろした。


「起きろ! おい起きろ! 射撃台に立て!!」


 凄まじい怒声が響く。古参兵ハンスのものだ。

 ハンスは気の良いオッサンだ。ついでに、僕と同じ二等兵。

 軍曹のモノマネをしているのは、下士官が全員死んだからだ。先々週の突撃失敗で、ばたばたと倒れてしまった。


 射撃台に座る僕を、ハンスの丸っこい目が捉える。前歯の欠けた口をにやりと曲げて近づいてきた。


「よお、バート。朝からご苦労だな。食うか?」


 アホみたいに固いパンをむしった破片を差し出してくる。僕は受け取って口に放り込んだ。油と塩素で臭くなった水筒の水で喉に押し込む。


「バート。お前さんみたいな魔法兵は、射撃台に立たなくて良いんだからな。大事なお姫様の御用聞きにでも行ってこい」

「朝はいるよ。移動弾幕あったら、後ろにいても死ぬ」

「なら、なおさらお姫様の横で死にたいだろ」

「そうだね」


 ハンスは立てた親指を後ろに向けた。良い奴だ。

 彼のヘルメットに指で触れ、呪文を唱える。


『凝塊』


 ハンスのヘルメットが灰色に染まった。

 僕が唯一使える魔法、『凝塊』は手で触れたものを硬化――正しくは強固にくっつける能力だ。凝塊させたものの体積分だけ、僕の体が石のようになる。魔法を解けば僕も動けるようになるが、少しだけ後遺症が残ってしまう。

 使い勝手の悪い、諸刃の剣だ。


 ハンスは目を見開いた。


「お前、無駄遣いすんなって」

「いいんだ。朝の時間だけだよ」

「魔法使いは後遺症が残るだろ!?」


 怒りと心配が混ざる声は、命が安すぎる最前線で数少ない暖かなものだ。だからこそ、ハンスには死んで欲しくない。

 僕らの横で射撃台に立っていた兵士がぐらりと倒れた。ヘルメットに穴が空いている。


「ほらね?」


 肩を竦めると、ハンスは眉間を指で揉んだ。

 本当に、ここは命が軽い。機関銃がスネアドラムのリズムで死をばら撒いていた。

 ハンスは深く溜息をついてから言う。


「六時には解くんだ、良いな。俺は、あんまり若い奴に魔法を使わせたくないんだよ」

「もちろん」


 四時半から六時は魔の時間帯だ。夜討ち朝駆けなんて言葉があるが、まさにその朝駆けを仕掛けられやすい。逆にこの時間を生き延びれば、沈む夕陽を拝める確率がぐっと上がるのだ。

 僕はハンスに手を振ると、壁のくぼみに押し込んでいた背嚢を引っかけて、移動用の通信塹壕に向かった。


 ◇


 僕らは第五〇三騎士連隊の第一中隊付ブランディス騎士挺身小隊、という長ったらしい部隊名を持つ。通称ツェール・ヴィッツ――数の冗談、数えるのも馬鹿馬鹿しいという意味だ。


 もともとは五〇しかなかった連隊が、開戦してすぐに一五〇まで増やされ、そして壊滅と新設・合併を繰り返して今や五五〇まで至ってしまった。二〇〇番以降は数えてもしょうがない、一々覚えなくてもすぐに死ぬと、自虐を込めてツェール・ヴィッツと呼びあっているのだ。


 そんなツェール・ヴィッツでも、小隊長であるケンタウロス尉官の扱いは決して悪くない。彼女たちが最前線の戦闘塹壕に出てくることは、ほとんどなかった。突撃のとき以外は、戦闘塹壕から数十メートル後ろにある、小規模な士官塹壕にいることが多い。


 ジグザグに掘られた通信塹壕を通り抜けて士官塹壕に入り、通信所を兼ねたダグアウトの扉を開く。高さ三メートルもある薄板の扉は蝶番が錆びていて、不快な音を立てた。


 コンクリートで補強された、殺風景な部屋だ。僕の背丈ほどもある大きなテーブルと、人間がテーブルを覗くための脚立が置いてある。石炭ストーブとオイルランタンで、ほんのり暖かい。


 柔らかな光に目を慣らすと、ブランディス少尉が僕を見ていた。外套を着込んで、獣胴に毛布を被っている。美しい青毛の獣毛が隠されてしまっていた。

 緩く敬礼すると、答礼が返ってくる。


「バート・シュミット二等兵です。蹄鉄の確認に伺いました」

「頼んだ」


 浮かない声だ。先々週の突撃失敗から少尉はこの調子である。それにしても、今日は凹みすぎている気がするけれど。


 無数の有刺鉄線に、足を奪う凍り付いた泥地。砲撃が抉った窪地は沼になり、底には鋭い鉄片が埋まっている。走るだけでも死にそうだというのに、正面の塹壕からはライフルと機銃が火を噴いて、遥か地平線からは砲弾が飛んでくる。


 突撃なんて、失敗して当然なのにね。だって、一ヶ月かけて我が軍が獲得した面積は、死体を敷き詰めた面積より狭いんだから。


 少尉の足下に跪き、豚毛のブラシを手に取る。少尉は素直に前足を上げてくれた。


 エナメルのように艶がある、硬質な若乙女の蹄を優しく擦って泥を落とす。それから蹄鉄との境目を綺麗にし、浮いていないか確認。

 角度を変えて、蹄底――足の裏に当たる、凹んだ部分もブラッシングする。綺麗な乳白色が姿を見せた。この世界じゃ、ケンタウロスの世話役だけが見られる特別な色だ。


 ヒビや傷がないかじっくり観察。そっと引き寄せて匂いを嗅ぐ。うん、悪くない。

 不衛生な戦場で、蹄に泥が詰まれば蹄叉腐乱という病気を引き起こす。


 最後に蹄球――かかとに見える、球状に盛り上がった部分――の周りの柔らかなところまでブラッシングすると、少尉が小さく声を漏らした。


「んっ……。バート君、なんだか丁寧過ぎないかな?」

「滅相もありません。少尉の走りが、その足が部隊の矛です」

「そ、そうか?」

「ええ、もちろん」


 断じてセクハラではない。


 この塹壕では比較的マシな、清潔めな布で拭くと、金属缶からワセリンを指でたっぷりと掬って塗りつける。丁寧に、雑菌が入る隙間を潰し、湿気が入り込まないように。指で付け根の際までぬるりと撫でる。


「お、おい、バート君。真面目にやっているんだろうな!?」

「はい? はい」


 我らが女神を、湿気と雑菌ごときで失ってはならないのだ。丁寧にやるのが当たり前。


「ううう、だが、いつもと違う気がするが……」

「そりゃあ。少尉、突撃命令降りたんじゃないですか?」


 息を飲む音。図星だったか。


「なんで分かった?」

「緊張していそうだったので」


 もちろん、少尉の様子だけじゃない。

 機銃台座の弾薬が少ないのに、予備が来ていなかった。補給のサイクルが近い。

 今の我が国は、物資よりも人間をたくさん前線に運んでくる。でもって、新兵が来たら、すぐ突撃に使うことが多い。


 物資が来るなら新兵も来る。


 塹壕から塹壕への突撃で生き残るかは、ほぼ運だ。古参兵でも下士官でも新兵でも変わらない。だから、下手に塹壕へ砲撃されて損耗する前に、人数が充足しているうちに突撃させたがるんだ。


 少尉は短く息を吐いて、また小さく吸った。


「そうだ。前線を押し上げるよう命令が下った」

「……ですか。この地点、既に突出気味なんですけどね?」

「司令部の見立てでは、この付近に敵の前進観測班がいるらしいのだ」

「ああ、なるほど」


 前進観測班。砲撃を命中させる為の目だ。

 最前線の戦闘塹壕、あるいは隠された少人数用のタコツボ塹壕、あるいは偽装された木や盛り土なんかに兵士が潜んでいる。そいつらが、砲撃の着弾を観測して、砲兵たちにリアルタイムで情報を伝える。


 前進観測班を潰せば、砲撃の命中率が下がるからね。何よりも大切な任務だ。


「前進観測班さえ潰せれば、ですか」

「また世話になる、バート君。いや、すまない」


 苦しそうな声に、思わず顔を上げた。


「そんな顔しないでください、少尉」


 僕は自分の額を撫でた。焼いた軽石のように、ざらざらと硬化している。ハンスのヘルメットに魔法を掛けた副作用だ。

 これまでの戦いで、体中の関節に微かな軋みを感じていた。


 魔法には副作用がある。それは魔法を解いた後でも、少しずつ積もっていく。


「少尉の身を守ることが、このバートにとって生きる意味なのですから」

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