第2話 無傷踏破

雑木林の影でスマホの電源を落としても、胸の鼓動は静まらなかった。


 ポイント。隠しステータス。反映。


 さっきまでの俺の世界には存在しなかった言葉が、頭の中で渦を巻く。

 興奮しているのが分かる。怖いのも分かる。だから余計に、冷静になろうとして逆に熱が上がる。


 俺は深呼吸して、視界の端を意識した。

 “見ようと思えば見える”――一般のステータスウィンドウと同じ感覚で、透明板がふっと浮かび上がる。



【隠し項目:ポイント】

所持ポイント:0(割り振り済み)


【隠しステータス】

・身体補正 1

・耐久補正 1

・感覚補正 1

・成長補正 1

・ドロップ補正 1


【次の課題】

・スライム討伐:0/300 +1

・Fランクダンジョン踏破:0/3 +1

・レベル差10撃破:0/1 +1

・ソロ無傷踏破:0/1 +1

・素材換金:合計5万円 0/50000 +1



「……更新って、こういうことかよ」


 独り言が、夜の雑木林に吸い込まれる。


 全部、現実的だ。現実的なのに、やってることが全然違う。

 スライム三百。踏破三回。無傷踏破。レベル差十撃破。換金五万円。


 最後の“換金五万円”が、いやに生々しい。

 俺の生活そのものを、課題にされている感じがする。


 ……でも。


 課題なんて、いまはどうでもいい。


 俺の体が、違う。


 俺は指を握って開いた。手袋越しでも分かる。掌の皮膚が、以前より“自分のもの”になっている感覚。余計な力が抜けていて、それでいて芯がある。


 身体補正。


 これが、攻撃力に関係しないわけがない。


 なのに一般のステータスは、さっきのままだ。


 怖くて、俺は一般のウィンドウも開いた。現実に引き戻されたいのか、確認したいのか、自分でも分からない。



【ステータス(篝 灯)】

レベル:12

スキル:ユニーク[見えざる目]

HP:128

MP:42


攻撃力:36

防御力:31

魔力:14

俊敏:29

器用:27



「……変わってない」


 数値は変わっていない。

 なのに、体感は別物。


 俺は施設の壁際へ視線をやった。雑木林と施設の境目、コンクリートの縁に、落ちた太い枝が転がっている。受付脇の植え込みから折れて落ちたやつだろう。


 人目は……ない。警備員は少し離れた場所でスマホを眺めている。

 俺は枝を拾い上げて、片手で軽く振ってみた。


 軽い。


 いや、枝が軽いんじゃない。俺の腕が、軽い。


 試しに、枝の先をコンクリートの角へ叩きつけた。


 パキン。


 乾いた音がして、枝が一発で折れた。

 今までも折れたかもしれない。でも、こんなにあっさりじゃない。手首が痛む前に折れた。


 俺は息を呑んだ。


「……身体補正、これ……」


 言葉が続かない。


 強くなった、というより、世界の方が“脆く”なったみたいだ。

 自分が変わったのか、周囲の認識が変わったのか、境目が分からなくなる。


 俺はゲートを見た。


 さっき出てきたばかりの光。

 中は湿った洞窟。スライムの気配。泥の匂い。


 スマホは、落としたままにした。配信はしない。

 もし本当に強くなっていたとしても、いきなり世界に見せる必要はない。


 月に数回の新人漁りが、もし偶然この瞬間に居合わせたら?

 切り抜かれたら?

 協会に目を付けられたら?


 考えただけで胃が縮む。


 俺は無音で入場端末にカードをかざした。

 ランプが点滅し、入場記録が通る。


 記録が残るのは分かっている。

 でも今夜だけは――どうしても確かめたい。


 ゲートをくぐる。


 境界の粟立ちは相変わらずあった。

 ただ、今回は“怖さ”じゃなく、“輪郭”として認識できた。皮膚が空気を読むように、内側と外側の違いをなぞる。


 洞窟の空気が肺に入る。湿り気。石。苔。

 ライトを点けた瞬間、世界が開く。


 暗がりの境目が、さっきよりはっきり見える。足元の泥の深さが分かる。滑りやすい場所が分かる。

 耳が拾う反響で、奥の空間の広さまでなんとなく掴める。


「……感覚補正、やばいな」


 俺の声が、洞窟の壁に返ってくる。

 その“返り方”すら、さっきより分かる。距離が分かる。位置が分かる。


 スライムの気配がした。通路の先で、ぬるりと動く。泥の色に溶ける半透明。


 俺は歩幅を落とした。以前なら、近づいてから気づく個体に、今は早めに目が行く。

 視線が勝手に“危険の芽”を拾う。拾いすぎて、逆に笑いそうになる。


 スライムが一体。

 次の角にもう一体。

 奥の溜まり場に三体。


 分かる。分かりすぎる。


 怖い……というより、今までの自分が“見えていなかった”ことが怖い。


 俺は刃物を抜いた。いつも通りのはずなのに、構えた瞬間に違いが出る。

 手首の角度。肘の高さ。重心。呼吸。


 迷いがない。


 踏み込み。


 刃が走る。


 ――ぬちゃ、じゃない。


 今までの感触は、もっと重かった。粘るものを切っている抵抗があった。

 でも今回は、抵抗が薄い。


 刃が、スライムを“裂く”んじゃなく、“通る”。


 スライムが二つに分かれる前に、もう分かれている。

 魔石が落ちる。粘液が跳ねる――はずなのに、跳ねる前に体が次の動きへ移る。


 俺はそのまま角を曲がり、次の一体へ。


 スライムが寄ってくる。いつもなら“まとわりつかれない距離”を意識する。

 でも今は、その距離が自然に取れている。足が勝手に“危険じゃない位置”へ滑る。


 斬る。


 裂ける。


 落ちる。


 回収。


 その一連が、早すぎて自分でも怖い。

 この速度で動いて、息が上がらない。


 耐久補正。


 俺は一度立ち止まって呼吸を確かめた。

 肺が楽だ。汗が少ない。脚が軽い。


 四年間ずっと、ダンジョン帰りは“疲労が染み付く感覚”があった。筋肉の奥が鈍く痛む。肩が重い。

 それが、ない。


「……反則だろ」


 喉の奥が乾いた。


 反則なのに、俺の四年は報われていい。

 誰も見ない配信を、誰も評価しない狩りを、誰も褒めない踏破を、四年続けたんだ。


 反則くらい、許されろ。


 溜まり場に踏み込む。三体のスライムが、ぬるりと寄ってくる。

 いつもならここは面倒だ。囲まれないように位置取りして、順番に削る。足を取られたら転ぶ。


 でも今は――俺の方が速い。


 半歩ずれるだけで、スライムの進行がズレる。

 そのズレに刃を差し込む。


 一体、裂ける。

 二体目、裂ける。

 三体目、裂ける。


 抵抗が薄いから、刃先の軌道が崩れない。

 器用、ってのはこういうことか。今まで俺が“器用27”でやってたのは、器用じゃなく必死だっただけだ。


 魔石がぽとぽと落ちる。


 そして視界の端に、小さな表示が出た。



『スライム討伐:6/300』



「……表示されるのかよ」


 口元が勝手に緩んだ。

 達成状況がリアルタイムで見える。これがあるだけで、作業が“積み上がってる”実感になる。


 四年間、俺に一番足りなかったのはこれだ。


 見える成果。


 俺は狩りを続けた。第二層を浅く回って、スライムだけを狙う。

 普段なら“効率”を考えて別のモンスターや素材も拾う。でも今日は検証だ。


 歩いて、斬って、拾って、進む。


 進むほどに確信が強くなる。


 これ――スライムごときが、障害にならない。


 いつもは「ミスったら終わる」って感覚があった。

 今は「ミスる前に避けられる」感覚がある。


 感覚補正が、視界の情報量を増やす。

 身体補正が、動作の余裕を増やす。

 耐久補正が、集中力の持続を増やす。


 つまり、事故が減る。


 俺はふと、課題の一つを思い出した。


 ソロ無傷踏破:0/1 +1


「……これ、いけるんじゃね?」


 言った瞬間、背筋がぞくりとした。


 無傷踏破。

 Fランクでも、これができる探索者はそこまで多くない。油断、転倒、擦り傷、粘液被り……何かしらの“ミス”が起こるのが普通だ。


 でも今夜の俺は、ミスりそうな気配がない。


 いや、正確に言うなら――ミスの前兆が見える。

 足元が滑る場所。空気が重い場所。気配が変な場所。


 危険が、形になる。


 なら、避けられる。


 俺はスライムの討伐を一旦切り上げて、踏破のルートを頭の中で組み立てた。

 無駄な戦闘を避ける。溜まり場は通る角度を変える。狭い通路は走らない。泥の深い場所は踏まない。

 何より、深追いしない。


 踏破は“生きて出る”ことだ。

 討伐数を稼ぐのはそのあとでもいい。


 俺は第二層の奥へ向かった。

 洞窟の天井が少し高くなる区間、反響が変わる。空間が広い。スライム以外の影がある。


 ……別種。


 Fランクにも、スライムだけじゃない。

 小型のゴブリン、コウモリ型、時々――“変なやつ”も出る。


 俺は足を止めた。


 暗がりの向こうで、カサ、と乾いた音。

 骨みたいな細い手足の影が見えた。たぶん、スケルトン系の下位種。Fランクの中でも“ちょい上”だ。


 倒せる。今の俺なら、たぶん倒せる。


 でも今日は無傷踏破。


 俺はゆっくり後退した。音を立てない。

 感覚補正が、相手の視線の向きまでぼんやり教える。こっちを見ていない。


 避けられる。


 避ける。


 ……強くなっても、俺は慎重でいたい。


 強者の配信は派手だ。派手に戦って、派手に勝つ。

 でも俺は、四年の底辺だ。派手に戦うほど死にやすいことを知っている。


 踏破ルートは、地味でいい。


 地味で、生きて帰れるなら、それが最強だ。


 帰還ゲートへ向かう道をなぞるように進む。

 途中、スライムが二体寄ってきたが――楽だ。


 刃が通る。抵抗が薄い。粘液が跳ねる前に終わる。

 魔石を拾う動作すら、以前より滑らかだ。手元で落とさない。器用、ってこういうことか。


 そして、気づく。


 ドロップが、微妙に違う。


 魔石の透明度が高い。

 粘液袋も破れにくい。

 偶然かもしれない。気のせいかもしれない。


 でも俺の視界には、あの項目がある。


 ドロップ補正 1。


 偶然じゃない可能性が、現実味を持ってしまう。


 俺は深く息を吸って、吐いた。


 落ち着け。まだ一日目だ。

 興奮すると事故る。四年の経験が、そこだけは正確に俺を抑える。


 帰還ゲートが見えた。

 光。境界。現実への出口。


 俺は最後に、自分の体をざっと確認した。


 擦り傷、なし。

 粘液を浴びた感触、なし。

 息切れ、なし。


 ……無傷だ。


 俺は、ゆっくりゲートをくぐった。


 現実の空気が肺に入る。蛍光灯が白く眩しい。施設の匂い。人の匂い。

 それでも、体の軽さは消えない。


 その瞬間、視界の端が強く光った。



『条件達成:ソロ無傷踏破(1/1)』

『報酬:ポイント+1』



 ……来た。


 喉が鳴る。心臓が跳ねる。

 俺はその場で固まった。誰かに見られていないか確認してから、呼吸を整える。


 透明板は続けて表示する。



『所持ポイント:1』

『割り振り可能:1』



「……マジか」


 声が震えた。


 たった一日。

 いや、正確には“今夜の追加潜行”だけで、一ポイント。


 しかも、さっき体感した。

 五ポイントでこれだ。

 一ポイントでも、常識が曲がる。


 俺は一瞬、課題一覧を見た。



『スライム討伐:38/300』

『Fランクダンジョン踏破:1/3』

『レベル差10撃破:0/1』

『素材換金:0/50000(本日の換金は未実施)』



 踏破は1/3。ちゃんと積み上がっている。

 スライムも増えている。このペースなら数日で300は行ける。


 そして――レベル差10撃破。


 そこだけが、異質に重い。


 レベル差10。

 今の俺が、レベル22を倒す。


 無理だろ。


 さっきまでなら即答でそう言えた。

 でも今は、即答できないのが怖い。


 倒せるかもしれない。

 いや、倒せるかどうかじゃない。挑んだ瞬間に、死ぬかもしれない。


 俺の中の“底辺の生存本能”が叫ぶ。


 やめろ。

 今の勝ち筋は慎重さだ。

 調子に乗るな。

 死んだら終わりだ。


 俺は唾を飲み込んで、首を振った。


「……レベル差10は、まだ無理」


 言い聞かせるように呟く。


 無傷踏破はできた。

 踏破は積める。

 討伐数も積める。

 換金も積める。


 やれることからやればいい。


 俺は換金窓口へ向かった。

 トレーに魔石と素材を並べる。さっきより数が増えた。透明度が妙にいいやつが混じっている。


 受付の女性がスキャンし、首を傾げた。


「……今日、追加で潜られました?」


 心臓が跳ねた。


 記録、残ってる。

 当然だ。協会管理なんだから。


「……ちょっと、忘れ物して」


 自分でも雑な言い訳だと思った。

 受付の女性は深追いせず、「そうなんですね」とだけ返して端末を操作する。


 数秒後、表示が出た。


「魔石、合計で……一万二千八百円。粘液袋が……二千五百円。合計、一万五千三百円です」


「……」


 俺は言葉を失った。


 追加で潜ったから増えるのは分かる。

 でも、それだけじゃない。


 同じFランクのスライム。

 同じ低級素材。

 なのに、単価が上がっている。


 受付の女性が淡々と補足する。


「透明度が高い魔石が混じってます。粘液袋も、品質がいいですね。状態がいいと、ちょっとだけ上がるんです」


「……そう、なんですね」


 声が掠れた。


 ちょっとだけ、じゃない。

 俺にとっては“ちょっと”が生死を分ける。


 バイトより少しマシだった日当が、バイトを明確に超えた。

 それでもまだ、命を賭ける対価としては軽い。だが――この上がり方が本物なら、話は変わる。


 俺は現金を受け取って、財布に押し込んだ。

 手が震えそうになるのを必死に抑える。


 外に出て、雑木林の風を浴びる。


 視界の端に、透明板が浮かぶ。



『素材換金:15300/50000』



「……積み上がってる」


 呟いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 透明板をもう一度見る。

 所持ポイント:1。

 割り振り可能:1。


 俺は、その一ポイントをどこに振るか、迷った。


 身体補正に振れば、さらに火力が上がる。スライムなんて影にすらならなくなる。

 耐久補正に振れば、無傷踏破の安定が増す。

 感覚補正に振れば、危険をもっと早く嗅ぎ取れる。

 成長補正に振れば、今後の伸びが加速する。

 ドロップ補正に振れば、生活が変わる速度が上がる。


 ……全部、欲しい。


 欲張りたくなる。

 でも、その欲張りが“レベル差10撃破”に繋がったら――死ぬ。


 俺は一度、目を閉じた。


 落ち着け。


 今夜は勝った。

 無傷踏破で一ポイント取った。

 それだけで十分だ。


 俺は、スマホの電源を入れかけて、やめた。

 今夜はまだ、誰にも見せない。見せる必要がない。


 月に数回の新人漁りが、もし明日覗いてきたとしても――ただのFランク周回に見えるようにしておけばいい。


 俺はゲートの光を、少しだけ遠くから見た。


 さっきまで“割に合わない場所”だった。


 でも今は――未来へ続く入口に見えた。


 そして、その未来には、課題がある。


 踏破を三回。

 スライム三百。

 換金五万円。


 そこまでは、手が届く。


 だが、レベル差10撃破は――まだ手を伸ばさない。


 俺は自分に言い聞かせて、夜道を歩き出した。


 胸の奥で、透明板が静かに光っている。

 見えざる目が、俺の“次”を見せ続ける限り。


 四年分の無駄は、これから全部“意味”に変わる。

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