第4話 兄との再開

 ゆたかが四十五を迎えた年。高い建物が雑木林のように立ち並ぶ街を、彼は歩いていた。服も髪も手入れはしているが、いわゆる都会へ来るような格好ではなかったために、行き交う人々にジロジロと見られた。


「おぅい、豊ぁ」


 一人の男が、彼の名を読んだ。顔を上げると、どこか昔の面影があるしわくちゃな笑顔と、ゔぁいおりんを抱えた男が一人。あきらだった。


「兄さん、なしてそんな大荷物抱えてきたん?」


「悪い悪い。ついさっき、フランスから帰ってきたばかりでなぁ」


 ほれ、土産だ。と、晃は大きな箱をくれた。外国の菓子が入っているらしい。それを買ったのは、コンサートをした会場から数分歩いたところにある、街のお菓子屋さんだったとか。


「にしてもお前、変わっちょらんなぁ。叔父さんと連絡取ってくれてたからまた会えたが、そうじゃなかったら、次会うのは天国だったかもなぁ」


「……兄さん」


 なんて、物騒なことを平気で口にする。晃の方こそ、性格は全く変わっていないようだった。




 二人は、待ち合わせ場所の近くのカフェに向かった。晃の奢りらしい。席につくなり洒落た帽子をとった晃は、額の面積が少し広くなっていた。


「兄さん、だいぶお疲れみたいだね?」


「いやぁ、ありがたいことに忙しくさせてもらってるからねぇ。豊は、年とらねぇなぁ」


 そうだろうか。自分の顔をしょっちゅう見ないのでわからないが、確かに兄は四十代後半には見えなかった。貫禄がある、と表現することもできるが、どちらかというと、やつれているという表現の方が正しい気もする。


「そういや、真由子まゆこは?」


「ああ。今も村で畑仕事してるよ。隣の……川田さんっていたろ? あのうちへ嫁いで、今は子供が四人いるって」


「へぇ、元気そうならよかった」


「会いに行ってやれよ。本当に死ぬまで会えなくなるぞ?」


「……賢治兄さんは?」


「さぁ、知らん。いいところへ働きに出たみたいだが、数年前に村へ帰ってきたと。骨が浮き出て見えるくらい痩せてたと、真由子が言ってた」


 知らないと言っておきながら、ちゃんと気にかけているじゃないか。なんて、本人には直接言わなかったが。


「豊は何してたんだよ?」


「日本中の、いろんなところをふらふらと」


「お前……胡瓜のおっちゃんと変わらねぇじゃねぇか」


 晃の一言に、豊は首を横へ振った。


「いやぁ、あんな大層な生き方はできていないよ。おっちゃんが兄さんや僕へくれたような、何か特別なものを与えられているわけじゃないから」


 むしろ、与えてもらっている気がする、と、豊は言った。


「糸を紡ぐおばあちゃんにも世話になったし、魚を釣る兄ちゃんにも世話になった。まだまだ世界はあったかいもんでさ、一文無しとわかっていても、かわいそうだと人情で面倒見てくれるんだ。こっちはいろんなこと教わって、いろんなもの見て、いろんなこと知れるあっちは、面倒が増えるだけだってのに」


「胡瓜のおっちゃんもそうだったろ? 食べもんだけ食って、帰ってったじゃねぇか」


 そういえばそうだと、豊は笑った。それでも、村のみんなはおっちゃんが好きだった。今さら、なんであの人は村中から好かれたんだろうと、不思議な気持ちになる。あれだけの長居を誰も追い返さず、むしろ引き止めたのは何故だったのだろう。


「でもさぁ、おっちゃんが村に来なかったら、俺もヴァイオリンなんか知らなかったし、世界を回ることもなかったし、お前が日本を旅することもなかったんだろうなぁ」


 晃は、自分の隣へ座らせたヴァイオリンを、大事そうに愛でながら言った。


「村のみんなもあんなに笑顔だったしなぁ。みんながおっちゃんに話聞いてもらいたくて、村長のうちへ集まってさ。今でもみんなの仲がいいのは、おっちゃんのおかげなのかもなぁ」


 つらつらと、独り言のように言葉を紡ぐ兄を横目に、豊は店員が持ってきた珈琲の湯気を視線で追った。ゆらゆらと、どこへ向かうかもわからないそれは、ある高さからふと見えなくなる。


「いいなぁ、人にいい影響を与え続ける人生って。そこらへんの金持ちより、幸せなんじゃないかなぁ」


 珈琲を一杯啜った兄は、どこかやつれた顔をまたくしゃっと笑わせた。高級そうな服と裕福そうな身体に似合わない、泣きたそうな笑顔だった。




 豊は、家出を手伝ってくれたお礼だと、晃にいくらかよくしてもらった。美容院にも連れていってくれたし、服を新しく買ってくれたし、靴は二足も買ってくれた。


「どうせこれからも旅を続けるんだろうからさ、兄貴として、ちっとはカッコつけさせてくれ」


 なんて言って。


「兄さん、僕はあげられるものなにも持ってないけど、いいんか?」


「貧乏な弟のくせして、なにを気にしてるんだよ」


 弟の申し訳なさそうな声に笑い、バシバシと背を強く叩いた彼は、そうだなぁと少し考えた。いつかしばらく時間ができたら連絡をよこすから。そうしたらお前の案内で旅がしたい、と。


「そんなことでいいなら……でも、楽しんでもらえるかどうか……」


「なにを弱気になってるんだ。お前は旅の玄人だろう? 絶対に兄さんを楽しませてやるから、くらいのこと言わんか」


 驚いた。兄が自分を玄人呼びするなんて、思ってもみなかった。自分はただ、自分が好きなように歩いて生きているだけだというのに。職も持っていないし、社会からすればただの落ちこぼれに過ぎないという自覚もある。


 じゃあ、俺はこれから米国へ行くからと、兄さんはまた都会の人混みに消えていった。


 玄人、か。いや、兄は何か一つの道を極めることを美学としているだけかもしれない。それでも、兄のたった一言に、今まで心のどこかで抱えていた後ろめたさのようなものが、ポロリと剥がれ落ちたような気がした。豊はこの時初めて、人にいい影響を与えるとはこういうことなのだと学んだ。


 それからというものの、豊は兄を楽しませるための旅の構想を練って過ごした。一年、一年時を重ねるごとに、日本を何周もしたような気がする。いや、正確には気分屋なもので行ったり来たりしたから、きっと一周もしていないのだろうけれど。

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