第3話 折り鶴

 あきらが十六に、ゆたかが十四になった年。久々に兄弟は喧嘩をした。


 きっかけは、夕ご飯の準備前に晃がヴァイオリンを練習していたこと。自室で勉強をしていた賢治けんじが、うるさいと苦情を言いに来たのだ。おっちゃんがいなくなってから、晃は独学でヴァイオリンを練習して弾けるようになったので、豊も妹の真由子まゆこも晃の見方をした。父もまた、今回は弟たちの意見に同意してくれた。


「晃も時間を選んで弾いているのだから、いいじゃないか。お前は学校で勉強してきたらどうだ」


 それが、気に食わなかったらしい。賢治はとうとう、晃のヴァイオリンをどこかへ隠してしまった。


「自分で無くしたんだろう、僕にそれを押し付けるなよ」


 問い詰められた賢治は、必死になって楽器を探す弟たちを鼻で笑った。ただ、幸いなことに、兄がヴァイオリンを納戸へ隠したのを妹が見ていた。晃と一緒に引っ張り出してきたそれは、埃と蜘蛛の巣に汚れていたものの、傷は一つもなかった。ただ、納戸の端っこには、ぱたりと折れた弦が転がっていた。


 もう、おっちゃんとの思い出の音は聞けなくなった。


 ここへいたら、今度は楽器本体が壊されるかもしれない、と思ったらしい。晃は荷物をまとめ始めた。少し離れたところへ住んでいる、母の弟の、昌治しょうじおじさんのところへ逃げると。


「……おれも行きたい」


「馬鹿、二人もいたら目立つだろ」


 豊は、何とかして兄について行きたかった。いや、憧れの旅に出られるなら、理由なんてなんでもよかった。


「手伝うから、途中までついてくだけでいいから」


 そう言って、豊は何とかして兄についていく許しをもらった。父親が帰ってきてから、晃がわざと長男に喧嘩をふっかけて、家を飛び出すのだ。それを豊が追っかけて、そのまま家を出て行ってしまおうという算段だった。そしてそれは、案外うまくいった。兄の背を追っかけ、あらかじめ隠してあった荷物を拾いに河辺に向かう。静かな夏の夜に、ただ真由子の泣き声だけが、頭のなかで繰り返されていた。




 豊は、言葉通りに、途中で兄と別れた。すれ違った優しそうな人に道を聞き、時に心温かい人のうちへ泊まった。十年前の少年が夢見た、自分の旅が始まったのだ。


 豊は、ただで泊めてもらうことはしなかった。おっちゃんがしていたように、その人の家業を手伝った。牛の世話もしたし、そばを打つこともあったし、それこそ、大根を引っこ抜いたりもした。


「豊ちゃん、収穫が早いねぇ」


「おばちゃんが丁寧に教えてくれたからですよ」


 おっちゃんと同じ、心からの笑顔。人の話を真剣に聞いて、内容をちゃんと覚える。心を開いて、くつろげる空間をつくる。そうしたら、いろんな人が助けてくれる。それを十年、二十年と繰り返して学んだ。


 今思えば、おっちゃんは物々交換をしていたんじゃないかとも思う。話を聞いて、一緒に笑って、その人にとっては何でもない普段の暮らしを、その人にとって特別な思い出にする。家に住まわしてもらって、体を温めてもらう代わりに、その人の心を温めてあげる。モノではない、目には見えないナニカを大切にする。それが旅人なのではないか。


 おっちゃんが、ヴァイオリンをくれたときの言葉を思い出す。


『価値を求めるんじゃなくて、思い出を作るのが旅の醍醐味なんだ』


 おっちゃんが最初に村に来たときは、働きもしない居候だ、なんて嘲笑うぽつぽつといた。そんな村人たちも、おっちゃんが帰る頃には、気をつけて帰れよと、気遣う声をかけて笑っていた。おっちゃんとの暮らしを通して、村人たちの心が豊かになったからだと、勝手にそう感じたものだ。


「……おっちゃん、ほんとは故郷なんか目指してなかったのかもなぁ」


 いつの日か、村の皆で見上げた星空をじっと見つめてみる。バレたか、と、おっちゃんが笑った気がした。


「麦わらぼうしのおじちゃん! かぁちゃんが、そこへいたら冷えるから、早よぅ中へおいでって!」


 ふと、背中の方で女の子の声がした。妹によく似た、元気な声だった。


「あいよ、今行く」


 よっこらせ、と、縁側を立ち上がった。編み終えた草履を手に、子供が手招きする方へと足を向ける。


「おじちゃん、今度は鶴を折ってよ!」


「まだおじちゃんって言われるような歳じゃないんだけどねぇ」


 豊は顔にしわを作りながら、無邪気な女子おなごから色紙を受け取る。そして、三十年前にも妹にしたように、丁寧に、丁寧に、首をまっすぐにした鶴を一羽、おってやるのだった。

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