第2話 胡瓜のおっちゃん

 それから、兄弟の仲はめっぽう悪くなった。


 口を聞かないばかりか、互いに顔も見なくなり、ついには、長男と話をしてやるのは末の妹だけになった。両親には悟られなかった。母が病に倒れ、それどころではなかったからだ。


 ほどなくして母は亡くなった。葬儀の日、長男の周りをたくさんの大人が囲んでいた。親戚のおじさんも、村長の奥さんも、わんわん泣いている妹を放っておいて、みんなこぞって賢治けんじのところに集まった。


「長男なんだから、お前がちゃんと家を支えてやるんだぞ」


葉子ようこさん、あんたを大切にしとったからねぇ。賢治くんが立派に育ってくれて、安心してると思うよ」


 兄はそれのひとつひとつに、笑って返していた。結局賢治は、母の葬儀で一度も泣かなかった。ただあきらゆたかだけは、兄の瞳の奥に隠れた影を感じ、互いの顔を見てぐっと黙り込んだ。




 それから数年が過ぎ、豊が十四になった年。村に身なりの整った旅人がやってきた。故郷を目指している途中で、道に迷ったという。話のうまい男で、田舎には珍しい品をたくさん背に抱えていた。村人はみな旅人を気に入り、彼はしばらくのあいだ、村長の家に居候することになった。


 旅人は、胡瓜きゅうりのおっちゃんと呼ばれた。胡瓜のぬか漬けが大好きで、たいそう美味そうに平らげたからだ。都会の人間に喜ばれるのが嬉しかったのか、その日から村中の胡瓜が村長の家に集まった。


 胡瓜のおっちゃんは、毎日のように遊びにきた晃と豊に、文字の読み書きを教えてくれた。勉強の合間には、本当か嘘かもわからない話を話してくれた。


「ここからずぅっと北へ行ったところに、むかしの武将さまが建てた寺や神社があってね。中には、太陽みたく黄金に光るものもあるんだ」


「うっそだぁ、お寺が光るはずがないよぉ」


「本当さ。さて、寺という字は書けるようになったかな?」


 言及しようとすれば、おっちゃんはいつもうまい具合にはぐらかす。そのくせして、海に浮かんだ鳥居があるとか、人の背よりずっと高い仏さまの像があるとかいうものだから、豊は兄と一緒に、面白がりながらそれを聞いてやるのだった。


 午後になると、胡瓜のおっちゃんは、兄弟に教わりながら村の畑仕事を手伝った。ただ、彼はあまりにも不器用だった。一生懸命に大根を引っこ抜きながら、何度も泥沼に足を取られたのだ。その度に豊が大人たちを呼んできて、大根の代わりにおっちゃんを泥から引っこ抜いた。


「いやぁ、楽しいもんだねぇ」


 おっちゃんは、照れくさそうに頭をかきながら、泥まみれの顔をにっこりさせていた。それから、川で綺麗にした大根をひと齧りしてみるかという村長の冗談を間に受け、大口でそれにかぶりついて、みんなをびっくりさせた。


「うまい、みなさんの愛が詰まってますねぇ」


 なんて言いながら。それを聞いた村人たちは、大声で笑い出した。


「馬鹿正直な奴め、今の時期のを生で齧るやつはおらんよ」


「ちょいと辛かったろうに。達治たつじさんは優しいのねぇ」


 そんなことがあったものだから、年を越す準備が始まった頃には、『胡瓜のおっちゃん』はいつの間にか『大根のおっちゃん』になっていた。その変化を村の誰も気に止めなかったのは、みんなの間でこの大根事件が嬉しかったからなのだろう。




 山の奥からうぐいすの歌声が聞こえてくる季節になった。おっちゃんは、村に来た時より大きくなった荷物を持って、村から旅立っていった。


「この村がどうも温かいもので。旅立とうと思う度に、もう少し、もう少しと思ってしまいまして。長い間、お世話になりました」


 おっちゃんは帽子をとって深々と頭を下げた。晃と豊は別れるのが寂しくて、村のはずれまで見送ることにした。家出した前科があるからと、村長がそれに付き添った。


 おっちゃんは、今までのお礼にと外国の珍しい楽器をくれた。ゔぁいおりんというものらしい。実際に演奏して聴かせてくれたこともあって、晃は特にその音色を気に入っていた。一度、試しに引かせてくれたことがあったものの、満足に音も出なかった。それでもいいんだと、彼は言った。


「使わなくたっていいんだ。それを見たとき、少しでも一緒に過ごしたことを思い出してくれれば、それでいい。価値を求めるんじゃなくて、思い出を作るのが旅の醍醐味なんだ」


 そう言って、おっちゃんは一度だけ兄弟の頭を撫でた。来た時より焼けた顔を笑みでいっぱいにした彼は、一人楽しそうにあぜ道を下っていった。


 夕陽が、痩せこけた道に長い影を落とす。孤独なはずのその背中は、なぜか豊には偉大なものに見えてならなかった。

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