時の旅人

天宮 乙葉

第1話 小野木豊

 小野木おのぎゆたかは旅人である。


 目的もなく、自由気ままに、日本のあちこちを歩いて回る。いついかなる時も、己の気の向くままに歩みを進める男であった。ときどき列車なるものを使ったりもしたが、彼は自分の足で散策する方が好きだった。風に乗ってくるにおい。人の声と物音。空から降り注ぐ陽光。それらを感じることが、彼の楽しみだったからである。


 彼に決まった職というものはない。時に日雇いの仕事をして稼ぎ、時に二つ上の兄から恵んでもらい、時に田舎の老人の慈悲を受けて過ごした。とはいえ、彼は最初から決まった家がなかったというわけではない。




 彼は、昭和二十六年生まれ。貧しい農家の三男坊で、朝から晩まで畑仕事をして育った。彼の仕事は、まるまる太った野菜をかごに放り込むこと。そうすれば、いっぱいになった箱を二番目の兄が蔵へ運んでくれる。ときどき末の妹が邪魔をしてくるのも、彼にとっては日課だった。


 そんな彼が初めて家を出たのは、長男の賢治けんじと喧嘩をした時のことだ。いや、正確に言えば、喧嘩をしたのは彼ではない。事の発端は、次男のあきらが兄の教科書を誤って汚してしまったことにあった。


 賢治は、四人兄弟の中で唯一学校に通っていた。貧しくはあるが、家を継ぐ長男にはなんとかして学ばせてやりたいというのが、両親の強い願いであった。そんな親の気持ちを理解するには、八つの次男はまだ幼かったのかもしれない。少なくとも、床に落ちていた教科書をどろに汚れたままの足で踏んでしまったのは、決して、故意にやったことではなかった。


「なして、せっかくかぁちゃんが買ってくれたもん汚した?」


「だから、わざとでねぇって」


「床くらい見て歩け、おめぇの目は何のためについとん?」


「少し汚れただけやて、まだ十分読める」


「はぁ? 学業の苦労も知らんくせして、簡単に語んじゃねぇ」


 その時はあいにく、父親は村の集まりに行っていて、母親は妹の体の具合が良くなかったものだから、街へ降りていた。止める人間のいないそれは、だんだんと激しくなっていった。豊は、兄たちが殴り合いになるのを、ただ部屋の隅っこでぼうっと見ていることしかできなかった。だが、心の中では、彼は晃に味方していた。


 豊は、長男が泥にまみれて汗水を流す姿を見たことがない。兄はいつも清潔な服を着て、頭を綺麗に刈り上げて、悠長に朝食をとって学校へ行く。自分たちとは違う世界に住んでいるような、そんなひとだった。


「もう知らん、賢にぃなんて父ちゃんに叩かれちまぇ!」


 ついに、頬を赤く腫らした晃が、そんなことを叫んで家を飛び出した。「勝手にせぇ」と、賢治はあとを追わなかった。豊は少しのあいだ、部屋に残った長男の目をじっと覗き込んだ。それから、裸足のまま兄が走っていった方へと駆けた。


「豊!」


 賢治の声が聞こえた気がする。それでも、彼は振り返らずに、走っても走っても遠くなる次兄の背中を一心に追い続けた。




 今朝の雨のおかげで、兄が走ったところにはくっきりと足跡が残っていた。肩で息をしながら、唯一の手がかりを見失わないよう、地べただけを睨んで歩く。たどり着いたのは、村の外れにある小さな川だった。ここから村の人々は、田んぼや畑に必要な水を引いてくる。大雨の日はこれが溢れることも何度かあったものだから、周りには人の気配など微塵もなかった。


 兄は泣いていた。父に怒られたって歯を食いしばって泣かない兄が、今日ばかりは泣いていた。


 豊は、またもその場に立ち尽くした。追ってきたのが悟られるか、悟られないかの距離を保ちながら、その場に立ち尽くした。声をかけていいのか。近寄ってもいいのか。一生懸命かがえた末に、豊は自身の爪の間に埋まった土を取り除いて、兄が顔を上げるのを待った。


「なんで、追っかけてきたん……」


「……賢にぃが、怖かったから」


「ここにいた方が、怒られるで」


「……わからんもん、賢にぃの苦労なんか」


「そか……」


「……」


「……しばらく、ここにいよか」


「……うん」


 それが、豊が初めて家出をした日だった。森へ出かけて山菜を採り、川を下って浅瀬で魚をいくつか捕まえる。それに飽きたら、兄弟は鳥と戯れて遊んだ。それにも飽きたら、野原でうさぎと駆け回り、地面を掘って虫を探した。普段から兄弟の遊びはそれしかなかったものだから、退屈を感じることはあまりなかった。


 兄弟は、時間も人の目も天気も気にせず、ただやりたいことを自由にやって過ごした。畑のことも、家のことも、親のことも考えなくていい。ただ自分にだけ向き合えるこの時間は、彼らにとって新鮮なものであった。


 やがて太陽が山に隠れた。晃は破れたズボンポケットから、マッチを一つ取り出して火をつけた。父の稲作を手伝ったとき、一箱だけ貰ったのだと言う。豊は兄に言われた通り、山から枯れ木を拾ってきて枯葉に火の点くのを見ていた。このときばかりは、兄をたくましいと感じたものである。


 だが、この火が原因で、二人は村人たちに見つかった。強制的に連れ返されたあと、兄弟は大人たちにこっぴどく叱られた。父はもうこんなことをするなと繰り返し、母は二人が無事だったことに安心して涙を流した。長男は、それを決して遠くないところから傍観していた。妹だけは何が起こったのかわかっていないようで、いつものように抱きついてきた。


「豊にぃ、一緒に寝よぅ」と。


 こうして、豊の初めての旅はあっけなく終わった。ただこの時の経験が、今まで畑仕事しかしてこなかった豊に小さな希望ゆめを抱かせたのは、確かなことである。

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