0006 - 偽善者
黒塗りのセダンは、街の流れに溶け込みながら走っていた。
加速も減速も滑らかで、運転の癖らしいものはほとんど感じられない。最初から、決められた軌道の上をなぞっているようだった。
瑞希は、助手席のシートに身体を預けていた。
窓の外では、東京の街並みが一定の速度で後退していく。見慣れたはずの景色なのに、何処か作り物めいて見えた。ガラス越しに見ているせいか、それとも自分の側が変わったせいか、判断がつかない。
車内には、感情がなかった。
いや――正確には、流れ込んで来ない。
ついさっきまで浴び続けていた、他人の感情。
湿気のように瑞希の身体に纏わりつく焦燥や苛立ち、意味もなく漂う退屈。それらが、この空間には存在しない。音を吸う防音室に入ったような感覚に、瑞希は僅かな安堵と、言い知れない不安を同時に覚えた。
沈黙が続く。
その沈黙を、不自然だとは思わなかった。
瑞希はむしろ、長く続いてほしいとさえ思っていた。
「訊かないのか」
運転席のスティンが、前を向いたまま言った。視線は一切こちらに向けられない。ただ、事実として言葉に落としただけだった。
「何を、ですか」
瑞希の声は、思ったよりも落ち着いていた。
自分でも意外だった。怒鳴りたいわけでも、問い詰めたいわけでもない。
ただ、言葉を選ぶ余裕だけが、奇妙なほど残っている。
「混乱した質問。怒り。拒絶。興味。普通は、どれかが来る」
淡々とした口調。評価でも分析でもない。
瑞希は、膝の上で両手を握り締めた。聞きたいことは、確かに山ほどある。黒いウィンドウ。能力。特異値。目の前の男が何者なのか。だが、それらを口にした瞬間、何かが確定してしまう気がして、どうしても踏み出せなかった。
「……聞いたら、戻れなくなる気がして」
言葉にした途端、その予感が確信に変わる。
「正しいな。だが、君はもう戻れない。開示されたのだから」
スティンは、即座に答えた。
ハンドルを握る手に、迷いはない。躊躇も、言い淀みもない。
「君のために、こちらから話す」
信号が赤に変わり、車が静かに停車する。
慣性が身体を前に押し、すぐに収まる。その僅かな揺れでさえ、妙に現実味が薄かった。スティンは、横目で一度だけ瑞希を見た。二人の視線が合ったのは一瞬。それでも、逃げ場がないと理解するには充分だった。
「まず、君が見た黒いウィンドウの話だが……」
瑞希の喉が、微かに鳴る。
意識の奥で、祝福の音が蘇りかけて、すぐに沈んだ。
「心の中で〈開示〉と言えば、再び表示される」
「へぇ、開示――ッうわ!?」
言葉にしただけで、目の前に黒いウィンドウが現れた。
驚きのあまり、肩を震わせる。目を瞬いても、表示されたままだ。
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宮原 瑞希/17歳 〈特異値〉1
異能:感情先読み
対象:他者
範囲:未確定
遮断:不可
身体:
・体力 :標準
・反射 :標準
・痛覚処理:遅延なし
精神:
・恐怖反応:検出あり
・自己認識:保持
・現実認知:基準内(※)
※特異値上昇に伴い変動します。
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「言葉にしても表示されるんですね……」
「ああ。ただ、滑稽だろう。言葉にしない方が良い」
「はは……そうですね。そうします」
軽い応酬だった。だが、あの日見た黒いウィンドウが、幻覚でも錯覚でもないと、完全に断定されてしまった。
「次に、異能についてだ」
スティンは、ウインカーを出し、自然な動作で車線を変えた。
「異能は、力じゃない」
「……でも、俺は……」
「違う。君が得たのは力じゃない。知覚の変質だ」
遮る声は、冷たいほど明確だった。
言葉を反芻する間も与えられない。
信号が青に変わる。車が、再び滑り出す。
「世界の見え方が、単純になる。余計な工程を省いて、結果だけが見えるようになる。だが、世界が整理されたわけじゃない。歪んで見えているだけだ」
瑞希は、思わず息を飲んだ。
この数日間、ずっと感じていた違和感が、一気に言葉を得る。
理解できてしまう。だからこそ、逃げられない。
「異能は、その歪みの副産物だ」
「副産物……」
「人間の性格の歪み――執着。欠落。恐怖。欲望。無意識下のそれが、知覚の変質を通して形を取る」
スティンの口元が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
笑みとも、嘲りとも取れない、微細な変化だった。
「この世に、同じ能力者はいない。理由も、同じ人生が二つとないからだ」
瑞希は、視線を落とした。
感情先読み。責任過剰。空気を読む癖。
思い当たるものが、多すぎた。
「……特異値は、何なんですか?」
「あれは、変質の深度だ。深くなればなるほど、戻れない」
一拍の沈黙。
その間に、車は高架の影に入る。
「そして、重要なことを一つ教える」
「……はい」
「特異値の話は、同類にしか話してはいけない」
声が、僅かに低くなる。
車内の空気が、目に見えない重さを帯びた。
「同類以外に話した場合、君は死ぬ」
「……それは。脅し、ですか?」
「いいや。そういう“理”でな。だから、一般人は知り得ない」
否定の余地はない。
事実として、そうなのだと伝えてくる声だった。
「掲示板の件は、正直危うかった。あの投稿は、私の方で処理してある」
「……すみません。ありがとうございます」
瑞希は言葉を失い、沈黙を置いた。
点と点が繋がり、逃げ道が一つずつ塞がれていく感覚。スティンの言葉には感情がない。だが、それがかえって恐ろしかった。
「……俺の異能は、感情先読みです。電車でも、色んな人の感情が流れ込んできました。でも……スティンさんからは、何も感じません」
瑞希は、ようやく一つの問いを絞り出した。
だがスティンは、すぐには答えなかった。
車が緩やかなカーブを描き、身体が流れていく。
「君より特異値が高い人間には、異能の効果はない。簡単に言うならば、君のいる次元と、私の次元が異なる。だから何も感じない」
静かな声。だが、その横顔は、何処か悲しげだった。
思わず、シートベルトをぎゅっと掴む。
瑞希は忘れていた。
特異値は、人を殺したあとに開示されたことを。そして理解した。自分より特異値が高いスティンは――常習的に人を殺す人間だということを。
「……あなたは、何なんですか」
ぽつりと呟いた言葉に、スティンが深緑色の瞳を細めた。
おもむろに窓を下げ、ジャケットの胸ポケットに右手を滑り込ませる。瑞希は僅かに身体を硬直させるが、出てきたのは煙草だった。
「私は――」
スティンは少し言い淀んだ。
咥えた煙草に火をつけ、細く息を吐く。刺激的な匂いが鼻腔を掠め、紫煙が視界の横を通り過ぎ、窓の外に消えていく。
「私は……ただの、偽善者だ。それ以上でも、それ以下でもない」
それ以上の説明はなかった。
自嘲も、誇りもない。ただ、事実を置いただけの言い方だった。
瑞希は、シートに深く背を預けた。
頭が痛い。思考が追い付かない。それでも、不思議と逃げ出したい衝動は沸かなかった。理解してしまったからだ。世界は、最初から歪んでいた。そして自分は、その歪みを――見える側に来てしまった。
窓の外で、街の明かりが滲んでいく。
黒塗りのセダンは、何事もなかったように、何処かへ向かっていた。まだ、引き返せると思っていた。その思いが、どれほど脆いかも知らずに。
特異値侵蝕症 幻翠仁 @gensui_gin
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