0003 - 知覚変質

 学校は、何事もなかったようにそこにあった。

 校門も、昇降口も、廊下の床の軋みも、事件の前となんら変わらない。変わったのは、自分だけだと、瑞希は思った。いや、正確には――変わったと気付かれているのは、自分だけだった。


「……あ、おはよう」


 声を掛けられる前に、掛けられると分かる。視線が一瞬だけ逸れる。その後で戻ってくる。躊躇。迷い。踏み込むかどうかを測る沈黙。


「おはようございます」


 先に答えると、相手は少しだけ安心した顔をした。

 その安堵が、はっきりと見える。昨日までより、少しだけ輪郭がくっきりしていた。大丈夫そうだ。思ったより普通だ。そう判断した顔だった。


 教室に入ると、空気が僅かに変わる。

 話し声が一拍遅れる。視線が、瑞希を避けるように流れる。誰も露骨なことはしない。ただ、全員が同じことを考えているのが分かる。


 触れて良いのか。触れない方が良いのか。

 瑞希は、席に付く前に軽く頭を下げた。


「……色々と、ご心配をおかけしました。俺は、大丈夫なので」


 そう言って笑みを浮かべた瞬間、空気が緩む。

 笑うつもりじゃなかったのに笑っていた。笑った理由が、自分の中に見つからなかった。誰かが小さく息を吐いた。誰かが笑顔を返した。正解だった、という感触があった。その感触が、前よりも鮮明だった。


 担任は、必要以上に優しかった。

 言葉の選び方が、目に見えるほど慎重だった。


「無理しなくて良いからな」

「何かあったら、すぐ言うんだぞ」


 言わないだろうけど。その一文が、声の奥に含まれていた。

 瑞希はへらりと笑い、頷いた。

 その頷きが求められていると、分かっていたからだ。


 昼休み。一人で弁当を食べていると、クラスメイトが通り過ぎる。

 声を掛けようとして、やめる。目が合って、逸らされる。

 可哀想、という言葉が、表情の中で形になる。


 瑞希は、箸を止めなかった。

 止めたら、気付いてしまうからだ。


 瑞希の顔色を窺う人間は皆、瑞希が壊れるのを待っている。壊れないなら、それでも良いと思っている。どちらも善意だった。


 放課後、帰り道で近所の人に会う。

 頭を下げられる前に、瑞希が先に下げた。


「……すみません」

 何に対してかは、もはや自分でも分からない。ただ、その方が相手が楽になると分かった。相手は、少し困った顔をしてから、優しく言った。


「大変だったね」

 その言葉の裏にある感情が、はっきり見える。

 これ以上は、踏み込まない。踏み込んだら、自分も何かを背負う。

 瑞希は笑った。ちょうど良い角度で。


「……はい。でも、大丈夫です」

 本心ではない。でも、間違いでもなかった。


 家に帰ると、静かだった。

 両親のいない家は、音が少ない。瑞希は靴を揃え、ソファに鞄を置き、電気を点ける。その一つ一つが、正しい手順だと分かる。間違えたら、何かが壊れるような気がしていた。そのとき、ふと気付いた。


 今日一日、誰の言葉にも傷付いていない。

 誰も悪いことは言っていない。

 誰も間違ったことはしていない。


 それなのに、胸の奥が、少しずつ削れていく。

「俺……前から、こんなに分かったっけ……」


 瑞希は、自分の手を見た。

 何も光っていない。あの黒いウィンドウも、音もない。


 ただ、人の感情だけが、少しだけ近い。

 それが一番、厄介だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る