0002 - 事情聴取

 警察署の待合室は、妙に静かだった。

 窓ガラスを叩く雨音。時計の秒針が、やけに大きな音を立てて進んでいる。宮原瑞希は、パイプ椅子に浅く腰掛け、膝の上で両手を重ねていた。


 血は落とした。着替えも済ませてある。

 だが、瑞希の意識はまだ引き摺っていた。冷たくなった両親の身体。握った包丁の重さ。男の体温。肉を引き裂いた、刃の生々しい抵抗。


 それを考えないようにすると、別のことが浮かぶ。

 考えないように、という行為自体が、もう逃げだ。


「父さんも、母さんもいない。俺は……人を殺した」


 落ちた言葉は、掠れていた。だが、濡れてはいなかった。時間をあけても、感情は追い付いてこない。整理する時間が足りないのかもしれない。


「……ごめんなさい……」


 誰もいない方向に、口が動く。

 誰に向けたわけでもない。だが、言わなきゃならなかった。そうしないと、自分がどうにかなってしまいそうだった。


 瑞希は頭を垂れ、自分の足をじっと眺めた。

 廊下を歩く人はいない。照明も、必要最低限。薄闇。どうしようもない孤独を感じて、瑞希は肩を震わせた。


 数拍あけて、ドアが開く音がした。

「宮原瑞希くん」


 頭上から落ちた、穏やかな声音。

 瑞希は、反射的に立ち上がった。

 呼ばれる前から、呼ばれる準備だけは出来ていた。


 案内されたのは、白い部屋だった。

 中央に置かれた机と椅子。所謂、取調室。先に座った二人の刑事。一人は年配で、もう一人は若い。どちらも、感情を顔に出さなかった。


「座ってください」

「……はい」


 椅子に座ると、机の冷たさが肘に伝わった。

 刑事は名刺を差し出し、淡々と名乗る。瑞希はその名刺を受け取り、両手で揃えて視界の端に置いた。雑に扱う理由はない。


「今日は大変でしたね」


 若い方の刑事が言った。

 労いの言葉だが、慰めではない。そのくらいは瑞希にも分かった。


「……いえ、」

 否定してから、言葉に詰まった。

 大変ではなかった、とは言えない。だからと言って、大変だったと言えば、何かを要求しているみたいになる。


「俺は、大丈夫です」

 そう言ってしまった自分に、内心で溜息をつく。

 年配の刑事が、手元の資料をめくった。


「じゃあ、確認からいきますね。君が家に帰ったのは、何時頃?」


 質問は、淡々としていた。

 責める調子でも、慰める調子でもない。ただ事実を、事実として並べる声。瑞希は、覚えていることを順に話した。


 学校。雨。鍵。扉。匂い。両親。男。包丁。

 言葉にするたびに、映像が鮮明になる。だが、不思議と声は震えなかった。今震えたら、誰かに余計な心配を掛ける気がした。


「――それで、揉み合いになったと」

「はい、そうです」

「君が、包丁を持った?」

「……正確には、相手の手首を掴みました。包丁は相手が持っていて……」


 刑事がメモを取る。

 ペンの擦れる音がヤケに大きく聞こえた。


「刺したのは、いつ?」

「……刺そうと思って、刺したわけじゃありません」

「うん」


 ただそれだけだった。

 刑事は否定しない。だが、肯定もしなかった。


「気付いたら……刺さっていました」

「怖くなかった?」


 瑞希は、即答できなかった。

 怖くなかったわけではない。だが、怖いという感情が、判断の中心にこなかった。それだけだった。


「……怖い、より先に……」

「先に?」

「……このままだと、終わる、って」


 何が、とは言わなかった。

 それでも、刑事たちは頷いた。


「君が、逃げる選択をしなかった理由は?」


 瑞希は、その質問に、少しだけ考え込んだ。

 逃げるという選択肢は、確かにあった。だが、逃げたあとに残るものを考えた結果、その選択肢は消えていた。


「……俺がやらないと、誰かが、困ると思いました」

「誰か、というのは?」


 瑞希は、答えに詰まった。

 両親。自分。近所の人。警察。救急。名前のない誰か。


「全員、です」


 沈黙が落ちた。

 しばらくして、若い刑事が、静かに言った。


「君、責任感が強いね」

 瑞希の胸が、僅かに跳ねた。

 否定されたわけでも、肯定されたわけでもない。

 ただ、そうだと評価された。


「……そう、なんでしょうか」


 自分では分からない。

 分からないから、そう言われると、少しだけ安心してしまう。

 年配の刑事が、資料を閉じた。


「君の行為が、正当防衛に当たる可能性は高いだろう。ただし、正しかったかどうかは――また別の話だ」


 瑞希の喉が鳴った。その一言で空気が締まる。

 瑞希は、視線を落とした。

 欲しかった言葉は、その続きに来るはずだった。だが、来ない。


「君は悪くない。でも、君が背負ったものは、無くならない」


 淡々とした声だった。

 逃げ道も、救いも、用意しない声。

 瑞希は、膝の上で拳を握った。


「……はい。分かってます」


 それしか言えなかった。

 肯定も、否定も、どちらもしてもらえない。それが現実だった。


 事情聴取が終わり、部屋を出た。

 廊下の窓から、雨が見えた。まだ、降っている。雨の合間に、黒塗りの車が通り過ぎた。何故か、その車に視線が流れる。


 瑞希は、ふと考えた。

 ――もし、誰かが正しかったと言ってくれたら。

 ――もし、誰かが間違っていたと断じてくれたら。


 そのどちらでも、楽だったはずだ。

 だが、世界はどちらも選ばない。

 ただ、結果だけを置いていく。


 瑞希は、静かに歩き出した。

 まだ何も終わっていないことを、理解したまま。

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