特異値侵蝕症
幻翠仁
第一幕
0001 - 特異値開示
教室の空気は、授業の終わりに向かい、薄く乾いていた。
窓際の席に差し込む光だけが、机の角を白く縁取っている。
揃えたところで、世界は整わない。そんなことは分かっていた。それでも、己の指先は、紙の端を探してしまう。乱れているものがあると、それが自分の責任のように感じられた。
「……あ、すみません」
それは、誰に向けた言葉でもなかった。
隣の席の椅子が僅かに引かれただけで、瑞希の口は勝手に動いた。謝る理由を探す前に、謝罪が出る。もし今ここで誰かが不快になっていたなら、それは多分、自分のせいだ。そう結論付ける方が、考える手間が少ない。
背後で誰かが、友人に小突かれて笑った。
笑い声は軽い。だが瑞希には、空気が一瞬だけ硬くなったように思えた。瑞希の胸の奥で、何かが小さく沈んだ。場の空気が崩れた原因を、反射的に探してしまう。誰かが置いていかれていないか、無理をしていないか。
それが正しいと、疑ったことはない。
全体が回るなら、その方が合理的だ。
他人が自分のことを気に掛けてくれるとは、最初から期待していない。
だからこそ、自分が引き受ける。期待しない代わりに、責任を持つ。それが瑞希なりの、世界との距離の取り方だった。
頭の奥で、幼い頃に何度も聞かされた声が響く。
『人様に迷惑だけは掛けるな』
『犯罪を犯すなら、徹底的にやれ』
瑞希は、内心で小さく息を吐いた。
冗談のようで、それは冗談ではない。父も母も、本気でそれを教え込んだ。前者は理解できる。世界は大抵、誰かの迷惑で出来ている。なら自分は、なるべくその原因にならなければ良い。迷惑は掛けない。それは正しい。
後者の意図は、今でもよく分からない。
父がその話をしたとき、テレビのニュースで、スーパーの弁当を盗んだ男が逮捕されたと報道されていた記憶がある。小さな罪を犯すくらいなら、瑞希が想像出来ないくらい――壮大な罪を犯せということだろうか。
犯罪を犯すことは、父母ともに、当然否定派だ。
だが、半端に逃げるなということを、教えたかったのかもしれない。瑞希は頭が良くないことを自覚していた。だから、徹底的にやれという言葉に、自分には無理だろうと結論付けるには、簡単なことだった。
チャイムが鳴った。
その音と同時に、教室が一斉に動き出す。瑞希は流れに遅れないよう鞄を持ち上げ、誰かの進路を塞がない角度で肩に掛けた。
廊下に出ると、雨の匂いがした。
湿った風が窓の隙間を通り抜け、制服の繊維に染み込んでいく。
――今日は、早く帰ろう。
そう思った瞬間、理由のない不安が胸に沈んだ。理由がない感覚ほど、後になって正しかったと分かることが多い。
瑞希は歩幅を速め、帰路に着いた。
***
玄関の鍵は開いていた。
それだけで、呼吸が浅くなる。鍵を掛け忘れるような家ではない。母は、鍵に関して異様なほど几帳面だった。「指差し確認!」と声に出して、必ず確認する人だった。瑞希は靴を脱ぐ動作を途中で止め、耳を澄ませた。
音がない。
テレビも、台所も、生活の擦れる音が、まるでしない。
雨の音だけが、外側の世界を不規則に叩いている。
「……ただいま」
声が、廊下に吸われた。
返事はない。瑞希は一瞬、言い直すべきか迷った。もっと、明るく言えば良かったのではないか。自分の声が足りなかったせいで、返事が返らなかったのではないか。そんな事を考える余裕が残っているのが、逆に不気味だった。
一歩、踏み出す。
廊下の奥。リビングへ続く扉が半開きになっていた。隙間から、電気の暖色が漏れている。扉のノブに手を掛けると、指先に僅かな抵抗を感じた。何かが扉の向こうで、引っ掛かっている。
押し込むと、扉が少しだけ開き、抵抗が消えた。
次に、匂いが鼻腔を掠めた。鉄。湿った鉄の匂い。雨の匂いと混ざり合い、喉の奥に薄い膜を張った。
床に、母が倒れていた。その横に、父の足が見えた。
テレビ台の前で、身体が不自然に折れ曲がっている。身体の下から滲んだ血が、僅かな傾斜に沿って流れていく。鮮血だった。
そこまで見て、瑞希の喉が無意識に鳴った。
世界の焦点が、勝手に狂う。視界が遠近を失い、家具の輪郭が少しだけ霞んで見える。瑞希は息を吸うのも忘れていたが、ようやく唾を飲み込んだ。
そして、気付く。
キッチンの前に、男が立っていた。包丁を持ち、黒い上着を羽織っている。顔の半分が影に沈んでいて、その容貌は見えない。男の指先は濡れていない。その代わりに、上着は両親の血飛沫で塗れていて、包丁の刃先からは、赤黒い液体が、床へ滴り落ちていた。
瑞希の脳は、そこでようやく言葉を探した。
「……あの、すみません。はは……」
引き攣った口元から出たのは、それだけだった。
男の肩が、僅かに揺れた。両親が殺されている状況で、瑞希が謝罪の言葉を投げたことに笑ったのか、ただ呼吸をしたのかは分からない。男は包丁を持ったまま、ゆらりと一歩踏み出し、瑞希の方へ向けて顎を上げた。
口が動いた。
何かを言ったはずだが、瑞希の耳は言葉を拾わなかった。否、拾えなかったわけではない。ただ、拾う前に、別のものが押し寄せた。
痛みではない。恐怖でもない。
形容しがたい感情が、他人の形で流れ込んでくる。母の残り香のような怯えと、父の怒りの途中で折れた熱。そして、男の胸の底にある、粘ついた確信。そこに混ざる、細く鋭い殺意。僅かに気圧されて、半歩後退する。
殺意が、刃の向きと同じ方向に流れた。
それは予感でも、予知でもなく、確信として分かった。このままだと、次に倒れるのは自分。あるいは、まだ息があるかもしれない家族。救えるかもしれない――という可能性が、瑞希の中で紙のように薄く揺れた。
瑞希の身体が動いた。
考えたわけでも、選んだわけでもなかった。ただ、逃げるという選択肢が、最初から頭になかった。足が床を蹴り、腕を伸ばす。包丁を持つ手首を掴む。皮膚越しに、骨の硬さが伝わった。男の力が強い。指が滑った。
「――っ、やめてください! どうしてこんなこと……!」
声が、はじめて言葉になった。
男の目が、瑞希を捉えた。目の奥に、妙に澄んだ色がある。冷たい水の底のような色で、恍惚に似た感情。その瞳が一瞬だけ細まり、口角が歪んだ。
次の瞬間、瑞希の視界が反転した。
男が体当たりをしてきたのか、投げられたのか、単に足を取られたのか分からない。ただ、木目の床に背中を打ち、痛みが遅れてやってくる。空気が喉に詰まり、呼吸が一拍止まった。包丁の柄が、誰かの手の中で軋む。
男が馬乗りになった。
だが、瑞希は包丁から手を離さなかった。離せば終わる。その終わるという確信だけが、焦燥に代わって胸の中で冷たく光っていた。
揉み合いの中で、男の腕が大きく振れた。
刃が、瑞希の頬を掠める。通った軌道が、一直線に熱を持つ。動揺を見せず抵抗した。そして、刃先が何処かに吸い込まれる。肉に沈む感触。抵抗。骨ではない、柔らかな抵抗。そこから先は、驚くほど簡単だった。
頭上の喉から、変な音が漏れた。
息とも、笑いとも付かない声。瑞希の腹の上で男の口が開き、唾液と血が混ざったものが垂れ落ちる。生温い感触が肌を撫でた。
瑞希は自分の手を見た。
男から奪った包丁が握られている。
刃は、男の腹に深く刺さっていた。
自分が、この男を刺した。
そう理解した瞬間、時間が少しだけ伸びた。
男の目が、瑞希の目を捉えたまま離さない。澄んでいた色が濁るでもなく、ただ遠ざかる。男は立ち上がろうとした。だが、足が言うことを聞かない。膝が折れ、そのまま凭れ掛かってくる。触れた男の体温が、やけに温かい。
瑞希は、その重みを感じたまま、呆然とした。
男の呼吸が、浅くなる。胸が上下する回数が減っていく。
そのとき、男が肩を揺らした。男は、笑っていた。
「……おめでとう。君も、私たちの仲間入りだ……」
「――は?」
男は言葉を残し、そのまま事切れた。
胸の鼓動が止まった瞬間、部屋の空気が一段重くなる。男の言葉はきっと、冗談のはずなのに、世界が頷いた気がした。
瑞希の耳に、雨の音が戻ってきた。
雨が窓ガラスを叩く音。換気扇の低い唸り。遠くで走る、車の水飛沫。
日常の音に反して、視界は悲惨だった。
その静けさの中で、唐突に。
瑞希の頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。
場違いなほど明るい音。祝福の形をした音。
耳の奥ではなく、脳そのものが揺れている感覚。
瑞希は、両手で耳を塞いだ。
だが、音は止まらない。止める場所が、分からない。
目の前に、光の板が生まれた。
黒いウィンドウ――現実の上に重なる異物。
そこに文字と、数値が並んでいる。瑞希は瞬きをした。消えない。目を逸らしても、視界の端を横切って目の前に躍り出た。
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宮原 瑞希/17歳 〈特異値〉1
異能:感情先読み
対象:他者
範囲:未確定
遮断:不可
身体:
・体力 :標準
・反射 :標準
・痛覚処理:遅延なし
精神:
・恐怖反応:検出あり
・自己認識:保持
・現実認知:基準内(※)
※特異値上昇に伴い変動します
通知:
・〈特異値〉は行為により蓄積します
・増加時、知覚に変質が生じます
・変質は回復しません
NEW ―― 初回開示、おめでとうございます
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理解できないのに、分かってしまう。意味が入ってくる。
言葉にできない理解が、喉の奥に沈む。
瑞希の胃が、ゆっくりと縮んだ。
祝う理由が、どこにもない。
瑞希は、血の匂いの中で、掠れた声を漏らした。
「……人を殺して、おめでとう? このウィンドウも、コイツも、頭おかしいんじゃないのか……ふざけんなよ……」
返事はない。家族も、男も、ただ静かに横たわっている。
ウィンドウだけが、淡く光っていた。
瑞希は、ふと、自分の両親の声を思い出した。
『犯罪を犯すなら徹底的にやれ』
胸の奥に、嫌な予感が沈殿していく。
これが始まりだと、理解してしまう。
これから先、自分は“徹底的に”を試されるのだと。
瑞希は、血のついた手を握り締めた。
指の隙間から、赤が滲んだ。
雨は止まない。祝福の音だけが、いつまでも消えなかった。
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