第2話 息が合わない二人は、だいたい最初に死にかけますわ

悪魔は、だいたい空気を読まない。


酒場の壁が黒く染まり、灯りが揺れ、床下から冷たい気配が這い上がってきたときも、あれは完全に空気を無視していた。

先ほどまでタルトの話をしていたというのに。

初仕事の前に心の準備というものがあるでしょう?


「……来ますわね」


わたくし、ソフィ・ブライトンは、ため息をつきながら袖を払った。

次元の隙間が、きしむような音を立てる。


「えっ、なにが……?」


隣に立つリオンが、間の抜けた声を出した。

――よろしい。

この反応速度、前衛として最低限は合格です。


「悪魔ですわ」


「は?」


説明は以上である。


次の瞬間、黒い塊が酒場に雪崩れ込んできた。

四肢の数が合わない。

目の位置が信用できない。

存在自体が「だいたいこんな感じ」という曖昧さで構成されている。


低級悪魔。

だが、閉所戦闘では厄介だ。


「リオン」


「は、はいっ!」


「前に出なさい。死なない程度に」


「それ、基準が雑すぎません!?」


「大丈夫ですわ。あなたは――」


わたくしは一拍置いた。


「まだ死なない顔をしています」


「そんな顔ある!?」


ある。

少なくとも、いまのあなたには。


リオンは剣を抜いた。

手が少し震えている。

だが、逃げない。

前に出る。


――なるほど。


「では、作戦を説明しますわ」


わたくしは指を鳴らし、即席の魔方陣を床に展開した。


「あなたは敵の注意を引きつけなさい。

 わたくしは詠唱に入ります。

 十秒……いえ、八秒で終わらせますわ」


「八秒!? それまで持たせろってことですか!?」


「正確には、七・八秒ですわ」


「誤差があるの怖いんですけど!?」


「誤差を許容するのが前衛の仕事です」


理論的である。


リオンは深呼吸し、悪魔へ向き直った。


「……行きます!」


勢いは良い。

判断も悪くない。


だが。


「――リオン、左ですわ!」


「えっ、左!?」


遅い。


悪魔の腕――いや、腕のようなものが、彼の脇腹を掠めた。


「っ……!」


「言いましたでしょう。誤差は許容されますが、油断は減点ですわ!」


「減点って、命が減ってるんですけど!」


その叫びと同時に、悪魔が跳んだ。

距離を詰める。

狭い。

酒場は、戦場として最悪だ。


「……詠唱、開始」


わたくしは両手を広げた。

魔力が集中する。

空気が張りつめる。


その瞬間。


「ソフィさん、下がって!」


リオンが、わたくしの前に割り込んだ。


「――なっ」


判断が早すぎる。


彼は、こちらを見ていない。

ただ、体が動いた。


悪魔の一撃が、リオンの肩を打ち抜いた。

鈍い音。

血が飛ぶ。


「……っ!」


「……リオン!!」


声が、裏返った。


――これは想定外。


わたくしは即座に詠唱を中断し、空間を歪めた。

悪魔の動きが、一瞬、遅れる。


「何をしているんですの!?

 詠唱中に割り込むなど、計画違反ですわ!」


「だって……!」


リオンは歯を食いしばりながら叫んだ。


「詠唱中は、無防備だって言ったじゃないですか!」


「それは……!」


理論上、正しい。

詠唱中の魔導師は、前衛に守られるべき存在である。


だが。


「……それは、役割分担の話ですわ!」


「役割とか、分かんないですけど……!」


彼は、わたくしを見た。

必死な目で。


「守れる距離にいたら、守ります!」


「――なっ、ななな何を……!? それ、アピールですか!? 120歳のわたくしを『女扱い』して守るという、高度な精神的マウントですの!?」


「ええっ、そんな難しいこと考えてませんよ! ただ危ないと思ったから!」


(無自覚! 無自覚に『守る』なんて、一番質が悪いアピールですわ! 心臓の魔導回路がオーバーヒートしそうですわ!)


「……あなたは前衛ですのよ!?」


「だからです!」


その瞬間、悪魔が再び動いた。


「ちっ……!」


リオンが体勢を崩す。

まずい。


わたくしは即断した。


「――詠唱短縮、第三形式!」


魔力を圧縮し、出力を下げる。

本来、使うべきではない形だ。


「リオン、伏せなさい!」


「えっ――」


遅い。


だが。


彼は、反射的に体を低くした。


――それで、十分だった。


次の瞬間、蒼白の光が酒場を満たした。

空間が、悲鳴を上げる。

悪魔の存在が、情報として崩壊する。


塵。

音。

静寂。


……終わった。


酒場に、再び灯りが戻る。


「……」


わたくしは、ゆっくりと息を吐いた。


「……生きていますか?」


「……た、多分……」


リオンは床に座り込んでいた。

肩を押さえている。

血は出ているが、致命傷ではない。


――良い判断だ。


「立てますか?」


「……はい」


彼は、よろめきながら立ち上がった。


その様子を見て、わたくしは腕を組んだ。


「……減点ですわ」


「ええ!?」


「ですが」


一拍置く。


「致命的ではありませんでした。

 よって――仮採用、継続です」


「仮って、いつ外れるんですか……?」


「本採用は、生き延びてからです」


理論的である。


リオンは、苦笑した。


「……あの」


「何ですの」


「さっき……勝手に前に出て、すみません」


「……」


わたくしは、彼を見た。


傷。

震え。

それでも、こちらを見る目。


「謝罪は不要ですわ」


「え?」


「結果的に、わたくしの詠唱は通りました。

 あなたも、生きています」


事実である。


だが。


「……ただし」


「ただし?」


わたくしは、視線を逸らした。


「次からは……

 勝手に、判断しないでくださいまし」


「……え?」


「判断するなら……

 せめて、わたくしが見える位置で」


言ってから、気づいた。


これは――

戦術的な要求ではない。


「……分かりました」


リオンは、少し驚いた顔で、うなずいた。


「ちゃんと、見えるところにいます」


……なぜ。


その一言で、胸の奥が、少しだけ軽くなる。


「……当然ですわ」


わたくしは咳払いした。


「前衛は、後衛の視界に入っていなければ意味がありません」


「はい」


彼は、素直に返事をした。


――調子が狂う。


「さて」


わたくしは、周囲を見渡した。

壊れた壁。

怯える客たち。


「この酒場、修繕が必要ですわね」


「え、あ……」


「わたくし達が魔法で壊しました」


「わたくし達??……(いや、壊したのはほぼソフィさんの魔法ですよね!?)」


「異議は却下ですわ」


連帯責任である。


(『わたくし達』。……ああ、なんて甘美な響きでしょう。)


リオンは、肩をすくめた。


「……でも」


「何ですの」


「一緒じゃなかったら……

 多分、死んでました」


「……」


わたくしは、一瞬だけ、答えに詰まった。


――それは、事実だ。


「……そうかもしれませんわね」


そう言うと、彼は少し笑った。


「じゃあ……」


リオンは、血の付いた剣を鞘に収めながら言った。


「一緒で、よかったです」


「……っ」


(殺す気ですか。この少年、わたくしを萌え死にさせる気ですわ。120年の孤独を、そんな『素直な一言』で溶かすなんて……禁忌魔法よりタチが悪い!)


心臓が、一拍遅れた。


「な、なにを言っていますの!

 それは合理的な判断の話ですわ!」


「はい。そうですね」


「……」


なぜだ。

なぜ、否定されないと、こんなにも調子が狂う。


「……次からは、もっと上手くやりますわ」


「はい」


「息を合わせる練習が必要です」


「はい」


……素直すぎる。


「……減点は、取り消しですわ」


「えっ」


「いまのは……」


理由を探す。


「……初戦にしては、上出来でした」


リオンは、ぱっと顔を明るくした。


「本当ですか!」


「ええ。……本当に」


その瞬間、わたくしは気づいてしまった。


――これは、戦闘訓練ではない。


誰かと、同じ場所で、同じ危険をくぐり抜ける。


それだけで、

世界の見え方が、少し変わる。


「……」


わたくしは、視線を逸らしながら呟いた。


「……息が合わないのは、最初だけですわ」


「え?」


「次は……

 もう少し、うまくやれます」


リオンは、少し考えてから、笑った。


「はい。

 僕も、そう思います」


……調子が狂う。


だが。


悪くない。


わたくし、ソフィ・ブライトンは――

この日、初めて理解した。


息が合わない二人は、

だいたい最初に死にかける。


――寂しいから、一緒にいたい。


そんな非合理な理論が、

確かな体温を伴って、わたくしの中に残ってしまった。

……認めませんわ。認めませんけれど。


どうやら次からは、

少しだけ近い距離で戦う必要がありそうですわね。

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『このお方、なんか面白そうだわ』と感じたら勇気を振り絞って「アピール!」しなさい! 〜高飛車な天才魔導師は、なぜか誰からもアピールされない〜 エートス記録官 @doar

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