第4話 夏 ─はじめの罪悪感─
その日の気温は、ついに三十五度を超えようかと言う所まで来ていた。
気温三十五度と言ったら、もう軽いサウナなんじゃないか?といつも思う。
夏日も真夏日もすっかり超えた猛暑日、本を読む手がまるで進まなかった。
汗のせいで手がぺたぺたとするし、額の汗が落ちそうになる度タオルで拭かなきゃいけない。 親父がせっかく買ってきてくれた本を簡単に汚すのは、なんだか惜しい気がした。
「祐希くん?」
母親も親父も今は仕事中で、この家には俺しかいなかったし、誰かが入ってくる要件もなかったはずなのに、目の前に女がいる。
制服に身を包んだ……いや、というよりこの大きなおっぱいは、間違いなく阿波野ゆめだった。
現代国語二十点、極度のバカの雰囲気を身にまとったおっぱいの大きい可愛い女、間違いない。
「祐希くん、一人?」
「……はい」
警戒心を強める。 俺は正直いって、あまりこの人が得意でないらしかった。
初めて話しかけられたあの日からも、彼女は何度も家にやってきたし、その度話しかけられたけれど、いつだって厚かましくてうるさくて、自分みたいな人間とは本当に合わない……本来なら一生話すことのない人種なんだろうなというのが、ひしひしと伝わってくる。
彼女は馬鹿でも弱くない……いや、なんなら自分なんかよりよっぽど強い人だということも、何となくわかったきたところだった。
あと、彼女が俺に話しかけてくる時毎回決まって親父もこちらに声をかけてくるのがなんとも居心地悪い。 普段話すことなんてないくせに、そういう時だけ一丁前に父親ズラしてくるのが嫌だったし、そんな事考えてるクセに親父と話せることを嬉しく思っている自分が一番嫌だった。
「今日も本読んでるんだ。 また宮川?さんの小説かな」
阿波野ゆめは、記憶力は悪くなさそうなのに、こういう著名とかを覚えるのが致命的に苦手らしかった。
「宮川じゃなくて、宮沢。 宮沢賢治」
「あ、そうだったね」
「でも今日は宮沢賢治じゃないです。 これは、太宰治です」
「へぇ」
それと合わせて、彼女はやたら聞き上手だった。
わかってる、彼女が俺のこんな話に興味など微塵もないこと、友人と話してる時の方が絶対に、五億倍くらい楽しんでるんだろうななんてことも……。
分かってるんだけれど、それはそれとして俺の話を楽しそうに、頷きながら聞いてくれるのがなんだかとても気持ちが良くて、それでもって嬉しかった。
これは単に友達としての側面を彼女に求めているのかもしれないけど……。
「なるほどなぁ、難しいけど、なんか凄いんだね」
ただ、阿波野ゆめは馬鹿だった。 それには違いなかった。
いや、人を馬鹿にできるほど俺は頭がいい訳じゃないんだけど、それはそれとして阿波野ゆめはキッチリ馬鹿だった。
俺が散々話終えると、沈黙が訪れる。
思えば、俺は彼女が来るまで本を読んでいたわけだから、彼女が黙るなら再び本を読み始めるわけで、彼女だって何も俺と会話するためにこの家に来たわけじゃないだろう……。
まぁ普通に考えて親父に会いに来たんだろうけど、残念ながら親父は仕事中でまだ帰ってきていない。
その旨を伝えると、えぇー!と驚愕の後、フラフラとこちらに近寄ってきたかと思えば、おもむろに俺の隣に腰掛けた。
ドキドキとする。 俺は一生、その時香った阿波野ゆめの匂いを忘れることがないんだろうなと確信した。
「じゃ、祐希くんとおしゃべりして帰ろうかな」
ややニヤケつつ、しかしその瞳の奥には落胆と、後悔と、苦悩と……そういう、不愉快という言葉を作るために必要なドロドロの嫌な感情が渦巻いていて、それを持ってこちらを見られるのが、酷く気分が悪かった。
虚ろ笑い、誤魔化せてるつもりなんだろうけれど、彼女はそういったことがあまり得意ではないみたいだ。
「祐希くんは、なんのゲームするの?」
極めて明るく気楽に気軽に、そういう"愉快な気持ちで質問しているように見えて欲しい"が見え透いた言葉、この人はやはり、感情を隠すのが苦手なんだなと思う。
しかもそれに合わせて、俺はゲームなどしていなかった。 残念ながら彼女は運すら持ち合わせていないみたいだった。
しかしながら、流石の俺も鬼ではないし、というか純粋に女の子を嫌な顔にさせるのが好きではなかったので、これまでの人生で学んできたユーモアと知識を持って、彼女の質問に全力で返すことを決意する。
「インベーダーゲームとか、ですかね」
「? なにそれ」
「いえ、冗談ですよ。 本当はドラグーンクエストなど」
「お、ドラグエやってるんだ。 どれが一番好き?」
「ど、どれ……? どれってなんですか? ドラグーンクエストはドラグーンクエストなんでしょ」
「……おー?」
ゲームの知識について学ぶことは、学校の友達か、あるいは親父から聞いた話くらいしか無かった。
しかも学校の友達とは普段話さないし、常に本を読んでいるから会話を盗み聞きするような事もしてない。 なので親父から教えてもらった極小量の知識を持って話してみたが、残念ながらそんなハリボテは一撃で看破されてしまう。
「さてはやってないな? ゲーム」
「はい」
阿波野ゆめは爆笑していた。 可愛い、可愛いと言いながら俺の背中をバシバシと叩いてきて、それが本当に鬱陶しかった。
「なんでやらないの? 中学生なんてゲーム三昧でしょ!」
「やらないんじゃなくて、やれないんです」
「と言うと?」
「親父がそういうの嫌いで」
「え、ええ。 せんせー、まじか」
この話をすると、全員一度はこの顔になる。 引きつった顔というより、今の時代にもそんな家庭あるんだと言わんばかりの……。
しかも阿波野ゆめは表情を隠すのがやはり苦手みたいで、一段とすごい顔だった。
「児童虐待だ」
「全然違います。 俺には本があります」
「ニノみたい」
「ニノ?」
「二宮和……じゃない、なんだっけ? あの本読んでる石像の」
二宮金次郎ですかと聞くと、なんかそんな感じだった気もする……と、彼女は何やら納得行って無さそうだった。
本を読んでいる石像のニノと言ったらどう考えても二宮金次郎一択であって、それ以外の何かがあるなら教えて欲しい。 忘れていた名前を聞いても思い出せないなら、それはもう元々変な形で覚えてたとかそんなところなんだろう。
というか、児童虐待でないのは確かだったし、なんならそう言われるのは若干嫌だった。 よそはよそうちはうちであって、親父の考えを教え子といえど悪く言うのは、なんかちょっと嫌だった。
「ねぇねぇ、そんな膨れ面にならないでよ。 怒らないで」
「怒ってないですが」
「じゃあほら、私のを貸してあげるから」
そう言って彼女はゴソゴソとバッグを漁り始める。 よく分からない超小型の瓶?(おそらく香水)とか、メモするための用紙だとか、意味の分からないギラギラした筆箱だとか、そういうのを散々出し切った後に、お目当てらしいメタリックブルーのゲーム機を掘り当てる。
「今はね、ポケッツモンスターやってるんだ」
「ペカチュウのやつですか?」
「そうそう、RPG系が好きでね」
よく分からないが彼女はポチポチとゲーム機についたボタンを手際よく押して、ゲームを起動させたらしい。
ポテチ食べながらじゃないゲーム久しぶりかもしれない、と殊更よく分からないことを言っていて、ポテチ食べながらだとゲーム機が油まみれになりませんか? と聞くと、二秒ほどの静寂の後、極めて静かに"なる"とだけ返ってきた。
まぁ、あんまり彼女的には良くないことをしてる自覚があるんだろう。 最新のゲーム機には自動清掃機能が!なんてのは全く聞いた事がなかった。
「やってみる?」
ひょいと差し出されたそれを、まじまじと見つめる。
やってもバレないよな、というのが真っ先に来た。
要するに、彼女にとっての『ポテチ食べながらゲームする』みたく、良くないことをこれからするという自覚があって、それに歩み寄る前提の気持ちになっていた。
親父の言いつけは絶対だった。 守らなければ暴力を振るわれるだとか、そういうのはよく分からない。 俺は一度も親父のいいつけを破ったことがなかったから。
ただゲームをするか否かという質問なのに、鼓動がドクドクと高鳴っていた。
元々暑かったのに、そんなイケナイコトを考える度、より頭が暑くなる。 脳みそが頭の中でボイルでもされてる気分だった。
「じゃあ、お姉さんと一緒にやってみよう」
硬直していると、阿波野ゆめは俺の左手を取って、ゲーム機の片方を持たせてきた。
私はこっちを持つからと、さっきまでの不愉快な感情など微塵もない、純粋で楽しそうで真っ直ぐな瞳を持って、俺に微笑みかけたのだ。
冷静に、いやそんな状態にはとてもなれそうになかったから、今眼中で起こっている事実から並べていく。
まず、とても距離が近い。 なんなら、当たっていた。おっぱいが。 大きいなと思うし、柔らかいなとも思う。 それととてつもなく暖かくて、優しくて、けれどとてつもない程に熱かった。
顔だって近い。 彼女が一呼吸する間、俺はとても息が吸えなくて、僅かに生じる息継ぎの合間で、過呼吸を起こしたみたいに必死に酸素の入れ替えを行った。
手にはゲーム機が握られている。 俺は一度も親父のいいつけを破ったことがなかったのに、生まれて初めてそれを破ってしまいそうだった。
酷い罪悪感がまず原点にあって、それから伸びた感情がたくさんに枝分かれしている。
今行っている事象の悪い部分(親父に怒られそうな部分)を洗い出そうとする感情とか、ひょっとして許されるんじゃないかというポジティブな(必ずしもポジティブが良い意味とは限らない)感情とか、そういうのが諸々溢れかえってきて、なんでか涙が出そうだった。
でも、何より罪悪感を感じたのは、彼女と密着している今、俺を見てくれている今、阿波野ゆめに見られている今、その事に急激なまでに興奮していたことであった。
「じゃあ、始めてみよっか」
恋をしたとはまた違うんだろうが、おっぱいが大きくて馬鹿で強い親父の教え子を、明確に異性として意識し始めたのは今、この瞬間だった。
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