第2話 夏 ─約束の海岸─
八月半ば。 午後四時二十六分。 玄関近くの縁側。
……いや、俺からしてみると、イギリス海岸というのは実にセンスを感じるネーミングだと思う。
実際それというのは海岸でもなんでもないし、イギリスにあるものでもない。 嘘八百と言ったらそれまでなんだけど、そんなこと言ったらキクラゲはクラゲでもないだろう? いや、木には生えているから、"イギリス海岸"にはやや劣るか……。
「まぁだから、このように考えるのが一般的。 君はすこぶる我が強いから、こういった筆記問題で点数を取れない」
「えぇー、わかんないですよこんなの……せんせー!」
宮沢賢治が命名したこのイギリス海岸という場所は、イギリスではなく日本は岩手県にあるもので、海岸どころか海ですらない、川の近くの泥岩層のことを指す。
曰く、歩いている感覚がイギリスの、白亜の海岸を歩いているようだったから、そう名付けたらしい。
大したものだな、と俺は思う。 イギリスでも海岸でもないけれど、歩いている感覚がそれに似ていたからと言うだけで、そんな大層な名前を付けてしまうのかと。 いやしかし実際歩いてみれば、そう違いはないのかもしれないな。
「今日はこんな所でいい。 君は何で来たかな? 送っていこうか?」
「自転車なので大丈夫です!」
「いや、いいよ。 自転車は荷台に載せればいい」
「そうなの?」
「うん」
じゃあ、行ってみたいなと思った。
イギリス海岸も、実際のイギリスにある海岸も。 俺はまだ金もないし、地位もないし、他にも持ちえていない物が沢山あって、だから何も出来ないけれど、でも今こうやって持っている知識とか好奇心を無駄にしたくはなかった。
実際に触れて、見て、確かめなければ分からないことなんて、多分この世界に沢山あるんだろうとぼんやり思う。
海外の翻訳された、日本が舞台の小説を読む度に、なぜこんな……いや、今日は一段と、ベッタリと暑いこの季節を書き込まないのかと思う時があるけれど、それは彼らが日本の夏を概念としか知らないからなんだろうなと思う。
お金も地位も持ちえているのに、コレの実態を知らずにコレを書いていそうなのはなんだか見るに堪えなくて、だからせめて俺はそうではないようにあろうと思った。
見て知って確かめて、初めて言葉を文字にしようと思った。
「今日もまた、一段と難しそうな本を読んでますね? 息子さん」
「あれは私が買い与えてるから……」
「天才?」
「もしかしたら君よりも頭がいいかもしれない」
「えっ、せんせーひどっ。 ……ねえねえ」
さっきから本当に、鬱陶しいなと思って無視してきたのに、どうやらうるさいヤツらの片割れがこちらに声をかけてきたようだった。
親父の教師としての仕事を邪魔しないように、女の子の学生としての仕事を邪魔しないように、極めて冷静に、且つ正しく務めていたというのに。
「何読んでるの?」
えっ? おっぱいデカっ、とまず最初に思う。 お母さんはおっぱいが小さかったんだなということもその時知った。 いや違う、近所のおばさん、同級生、同級生の母親、稀に見るのが許されるテレビで見たニュースキャスター、そのどれもが彼女程の大きさではなかったはずだ。
おっぱいデカイ……おっぱいが、デカかった。
「……あ、せんせー、この子スケベだ」
「えっ」
「おっぱい見てたよね」
「見てなっ……見てない、見てないです!」
「嘘だよー」
「阿波野さん、人の子供を誑かすのはやめてください。 祐希? 人と話す時は視線を合わせなさいと前にも叱ったね」
あ、そういうこと、人と話すの苦手なんだ。 と言って、彼女は腑に落ちた顔でこちらに向き直った。
助かっ……いやおっぱいがデカい、デカかったんだ。
「で、何を読んでたのかな? 凄く頭が良さそうな本だね」
「……ええと、宮沢賢治の」
「? みや……?」
「……小説です」
「あ、へー。 頭いいんだ、やっぱり!」
ぽかんとした顔を見せたり、かと思えば目を輝かせたり、急激な表情の変化を彼女は起こしていたんだろうなと思うし、それを実際この目にしていれば相当愉快な光景だったんだろうなと思うが、俺的にはこの揺れる乳房を見ている方がよっぽど愉快であったし、楽しかったし、嬉しかったし、大きかった。
あと、俺が頭がいいのかはさておいて、彼女は頭が悪いんだなということは、何となく理解した。
「なになに……イギリス海岸? せんせー、イギリス、今ね、地理でやってるよイギリス」
「いや、これはイギリスの話ではないよ」
「え? 嘘ってこと?」
「祐希」
「うん」
「イギリス海岸は、イギリスにあるものじゃないんです。 海岸ですらない。 宮沢賢治が歩いた北上川の西岸、泥岩層の部分の歩き心地が、イギリスの白亜の海岸を歩いているようだったので、そう名付けられました。 俺としてもそんなめちゃくちゃなとは思うんですけど意外にも根拠はいくつかあるみたいで、とはいえそれを自分の目でも確かめたいなと言う部分があり」
と、親父から説明を振られたことの嬉しさやら、女のおっぱいを見たやらの興奮で散々に語っていると、その俺の声以外何も聞こえなくなったので不思議に思い、声を止めて意識を瞳に向ける。 要するに、目の前の状況を見ることにした。
そこで初めて、女が理解を手放した表情を持って俺を見つめていることを知る。 というかなんなら、この女がとても可愛らしい人であることも、そこでやっと初めて知った。
「……」
「……お姉さん、なんかよくわかんないな!」
一生、自分の内なる部分を人にひけらかすことはしないようにすると決意した。
美人なおっぱいの大きいお姉さんによく分からないと言われたことのダメージ、ショック、今の俺は社会通念の知識が未来の自分に比べ欠落しているんだろうけど、でもその辛さはうっすら理解していて、うっすら心に傷をつけていく。
暗い暗い深い闇に心を閉ざそうとした時、その扉と彼女の口はどちらも強引に開かれた。 如何にも捻り出したようなセリフだった。
「分かんないけど、行きたいならお姉さんが連れてってあげるね」
結構ですと言いたかったけど、言えなかった。
というか、もう心は傷ついてしまっていたので、何か否定を返してそのままうっかり反撃をくらい、よりダメージを喰らいたくなかった。
「……は、はい」
絞り出した答え。 助けを求めるように親父の方に視線をやったというのに、親父はもう既にそこにはいなかった。
近くでガッシャンと音が鳴って、あぁ親父はもう自転車を車に積みに行ったのかと理解する。
「一緒にドライブして、イギリス海岸に行こう。 でも私が大学に入って免許取って……って出来たらね!」
「……」
「約束だよ」
じゃあ私も行かないとだから! と言って、彼女は足早に去っていく。
一応見送りくらいはしてやろうと思って立ち上がり、縁側から玄関に向かったけれど、そこにあったのは俺のスニーカーとサンダル、ブーツ、親父のスニーカーくらいだった。 母さんの靴は別の棚にしまってあるので、要するにこの場所に女物の靴はなかった。
ならばと再び縁側に戻ろうかと思ったが(そこから車が止めてあるところは見えるので)、向かおうとした途中にエンジン音が遠ざかって行ったので諦めた。
なんだかやることなすことがことごとく上手くいかない感じでうざったくて視線を落とすと、玄関近くの物置机に、一枚の紙を見つける。
現代国語のテスト用紙だった。
点数は二十点だった。
阿……阿波野、阿波野か? あぁ、うん。 阿波野ゆめと書いている。
阿波野ゆめは、現代国語で二十点らしかった。
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