第3話

気が付くと、床に座っていて、両腕が動かなくなっていた。冷たい金属が触れている。ロフトのハシゴに後ろ手に縛られていることを悟った。

涙と涎に塗れた頬が冷たい。

まだ口の中には喉が焼けるような甘さが残っている。


そんな僕のことをベッドに腰掛けた紗桐くんが見下ろしていた。

頬杖をついた紗桐くんの美しい百合の花のような指は、所々まだ乾くことのない赤い血が滲んでいた。


「蓬澤さんが噛むから、指、こんなになっちゃいましたよ。血だらけ。どうです? 甘かったですか?」


紗桐くんは自分の血と僕の涎に塗れた傷だらけの指を今にも「昨日ネイルサロンに行ったんですよ。どうですか。」とでも言い出しそうなうっとりした顔で見つめている。


「なんでこんなことするんだ。」

我ながらバカみたいなことを訊いたと思った。

紗桐くんは頭がおかしい。

良き同僚だった紗桐くんの面影はもうどこにも無かった。


「なんでって、蓬澤さんにとってぼくが特別になれたからですよ。蓬澤さんにとっての唯一の味覚になれたからですよ。たとえそれが蓬澤さんにとっては苦痛だったとしても、蓬澤さんの苦しんでいる姿を見れば見るほど、蓬澤さんの中にぼくが確かに存在していることを実感できるんです。ぼくはあなたの特別ですし、あなたもぼくにとって掛け替えのない特別な存在になったんです。それって素敵なことじゃないですか。ぼくは今、すごく幸せです。」


自分の指から目を離さないまま、高揚を隠しきれない恍惚とした表情で紗桐くんは答えた。


その姿には確かにある種の禍々しい美しさがあったが、紗桐くんはヤバい奴だ。それもとんでもなく。ヴェルタースオリジナルみたいなこと言いやがって。

ちなみに僕は、昔、祖母から貰って仕方なく食べたとき、あまりの甘さに泣き出してしまったぐらいヴェルタースオリジナルが嫌いだった。


両手を拘束されている以上、逃げ出すこともできない。ましてや、この甘い匂いが充満した部屋で体力が疲弊し、意識が朦朧とした状態で何ができるというのだろうか。


いつしか紗桐くんの視線は、指先から僕の方へと移っていた。


「蓬澤さん、さっきみたいな顔見せてくださいよ。ぼくのせいでぐちゃぐちゃになった顔、吐き気を堪えた苦しそう顔、涙で赤くなった蔑んだような目、もっと近くで。」


ベッドから降りた紗桐くんが僕のほうに近付くにつれ、あの吐き気を催す甘い匂いが強くなる。何度となく迫り上がる胃からは何の味もしない透明な液体しか出てこない。それでも喉や舌がちりちりと痛むのは、これが本来であれば酸っぱいはずの胃液だからだろう。


僕の傍に来て身を低くした紗桐くんにまた口を無理矢理こじ開けられるのではないかと身構えたが、僕の口を手で軽く拭った紗桐くんは、そのまま顔を寄せてきた。

当然、拘束されているためなんの抵抗も出来ないまま口を貪られる。柔らかく甘すぎる舌が口の中を這い回る。ガムシロップのような唾液が流れ込んできて、思わず顎を強く閉じたとき、確かに肉が歯に刺さる感覚があった。その瞬間チョコレートの味が口いっぱいに広がる。あぁ、これは本当なら血の味がするんだろうなと、朦朧とした頭で思った。それでも、血の味の方がマシなはずだ。目を開けることができない。びちゃびちゃとした卑猥な水音だけが耳にまとわりついてくる。これだけ嫌という程の『甘さ』を浴びて尚、それは一向に麻痺することがなく、終わりのない煉獄に囚われているとしか思えなかった。

味覚の異常は脳のエラーだというのなら、僕もまた、この男と同じぐらいに頭が狂っているのかもしれない。


ようやく僕から顔を離した紗桐くんは柘榴でも食べたみたいに口の周りを自らの血で真っ赤に染めていた。


もう空っぽの胃からは何も吐き出す気力さえなく、霧がかかったような甘さのなか、胃酸に焼かれ火傷を負ったかのような内臓から喉に至るまでのひりひりとした痛みだけが鮮明に感じられた。


紗桐くんといると、味覚というのはなにも、舌だけで感じているものではなかったのだということに気付かされた。今やあらゆる『甘さ』が五感を侵していた。何をされても何をしなくても甘い。

ただ、その甘さには決して慣れることはなく、『甘さという苦しみ』に対する諦めや絶望により無感情になっていくだけだった。


狭い独房のような部屋の中、実際どれだけの時間が流れたのかわからない。

数時間のような気もするし、もう何日も経ったのかもしれない。


紗桐くんはあれ以降も幾度となく無抵抗になってしまった僕の口腔内を味わい尽くしていたが、これではむしろ、紗桐くんこそがケーキを貪る子供のようだと思った。紗桐くんは頭がおかしかったが、味覚だけはまともなはずなのに。


紗桐くんはそれで暫くは満足そうだったが、最早作業のように度重なる甘味の濁流に無感情になった僕のことを見て段々と不安気なそぶりを見せるようになった。


もう何度目か分からない蹂躙のあと、必ず紗桐くんが「どうです? 甘いですか?」と投げかけてくる問いかけがなかった。

甘さに麻痺して口も舌も喉も感覚を失い、疲弊して動けなくなった僕はその質問にまともに答えられたことはなかったのだけど。


紗桐くんは僕の額に自分の額を当てながら「蓬澤さんの中に僕はまだいますか?」と、意図のよく分からないことを訊いてきた。

僕はそれに掠れた声で「わからない。」と答えた。


「わかんないけどさ、甘くなきゃよかったと思うよ。僕はさぁ、ラーメンと焼肉とカレーが大好きで、月末にお気に入りの店に行くのだけが楽しみだったのにさぁ、今月、、、ってもう今がいつだか全然わかんないけど、駅裏の焼肉屋のさぁ、平日限定の焼肉定食食べに行くの楽しみにしてたんだよ。それがさ、味が全然わかんなくなっちまってさぁ、、、甘いのしかなくなって、、、全然意味わかんねぇよなぁ、焼肉定食、焼肉定食が食べたい、、、なんで、なんで甘いんだよばかぁ、、、」


目からもう涙すら流れなかったが、僕は嗚咽を止められなかった。

紗桐くんはそんな僕の頭を黙って抱き締めた。身体からは相変わらずあの温室で嗅いだ噎せるような甘い百合の匂いがした。

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