第2話

気が付くと、見知らぬ部屋にいた。

暗い。

間接照明がぼんやりと照らし出した天井が異様に高いのに反して、井戸の底を思わせるひどく狭い空間。ロフトからハシゴが伸びているのが見える。都心の狭小賃貸住宅の部屋だ。ネットニュースで見たことがある。

恐らく、今自分が寝ているベッドは部屋の床を殆ど埋めているのだろう。

そして、ひどく立ち込める噎せ返るような甘い匂い。頭が割れるように痛い。


「蓬澤さん、気が付きましたか?」


声の方を振り向くと紗桐くんの顔が目の前にあった。

僕の隣で横になっている。

添い寝するみたいに。

こいつまつ毛なっが。ってか、


「うわぁ!」

僕はびびって飛び起きて壁に背中をぶつけた。

紗桐くんはそんな僕を見て身体をゆっくりと起こす。

「すみません、僕の部屋見ての通りめちゃめちゃ狭いので。」

あまりにも申し訳なさそうな顔で言うので僕はいたたまれなくなった。

「・・・・・・ごめんな、ちょっとびっくりして。」

「いえ、驚きますよね。起きたら同僚が隣に寝てるなんて。」

「ってか、僕、タクシー乗ってから記憶が、、、」

「あのあと、蓬澤さん気を失ってしまって、どうしていいのかわからなかったのでとりあえず僕の家に運びました。服も汚れてたんで、僕ので悪いんですけど着替えさせてもらいました。」

至れり尽くせりだ。やはり持つべきものは介抱してくれる同僚、、、


少し落ち着くとまた部屋に漂う甘い匂いが気になり始めた。それにしても、


「タクシーで渡してくれた水、あれ尋常じゃない甘さだったんだけど、ポカリの粉かなんか溶かしてたりした?」

本当はポカリなんてもんじゃなかった。

かき氷シロップやカルピスの原液を飲んだのかと思うぐらい甘かった。

すると、紗桐くんは不思議そうな顔をした。

「あれは普通にコンビニで買ったミネラルウォーターですよ。ポカリの粉とか別に溶かしてないです。僕の飲みかけであるということ以外はただの水です。」

「・・・・・・そうか。」

「っていうか、蓬澤さん味覚が、、、」

「あ。」


味覚が、ある。


紗桐くんは何か少し考えているように顎に手を当てている。

そして、やや暫くの沈黙のあと、口を開いた。


「蓬澤さん、ケーキバースって知ってます?」

「は? バースデーケーキ?」

「・・・・・・ご存知ないですよね。僕、実家にいるときによく姉のBL漫画を読んでいたので知っているんですが、」

「え? BL漫画、、、?」

僕は混乱した。

「まぁ、説明するので、とりあえず聞いてください。」

「ああ。」

ちょっと何言ってんのかわからなかったが黙って紗桐くんの話を聞くことにした。

「ケーキバースっていうのはBL漫画の中のジャンルのひとつで、ケーキとフォークという特異体質の人間がいる世界観です。」

「はぁ。」

ますますもって意味がわからなかった。

「フォークの人間はケーキの人間の肉体、体液、匂いの全てが美味しく感じられる一方で、ケーキの人間に対して以外、あらゆる全ての味覚を失います。ケーキの人間は自分がケーキであることには無自覚で、多くの場合ケーキバースのBL漫画ではケーキの人間はフォークの人間に性的な意味でおいしく召し上がられます。」

「・・・・・・。」

「ドン引きしてますね。何言ってんのかわかんないですよね。そういう世界観があるんです。」

マジで意味がわからなかった。

しかし、

「その、ケーキっていうのは、」

「そうです。ケーキのように甘くておいしいということからケーキと呼ばれているのです。」


最悪だった。

ケーキが甘くておいしくてご褒美に思う人間ばかりではない。

ピザが嫌いなイタリア人がいるように、カレーが嫌いなインド人がいるように、この世にはケーキが嫌いな人間もいる。


その、嫌悪している味覚だけしか感じられなくなってしまったら。

端的に地獄であった。


「つまり、僕はその、フォークってやつになって、紗桐くんは、」

「はい。蓬澤さんにとってのケーキってことになると思います。でも、正直半信半疑ですよ。だってこんなのフィクションの話じゃないですか。ましてやBL漫画という特定ジャンルの中のさらに細分化したいちジャンル設定が現実に存在するなんてにわかには信じられないですよ。それに、ぼくは別に何も感じないですし。ほら、」


紗桐くんは僕の目の前で自分の指をべろりと舐めた。


「全然、甘くもなんともないです。」


そして、その指を僕の眼前に差し出す。

紗桐くんの細くて白く綺麗な指は涎にまみれてぬらぬらと妖艶に光っていた。

鼻孔を焼く暴力的なまでに甘い匂い。


昔、連れて行かれた温室の、満開の百合の花の匂いに似ていた。

僕はあの匂いが嫌いだった。

あのときも吐いて、親が大慌てで焦ってたっけ。


紗桐くんの手は百合の花に似ていた。


「蓬澤さん、甘いかどうか確かめてみてください。」


胃が迫り上がる感覚。

僕は顔を逸らした。


「ねぇ、」


両手で頭を掴まれ押し付けられる。

壁を背にして僕は動くことが出来ない。

紗桐くんの指が、僕の口を無理矢理に割り開いて入ってくる。

顎は人間の身体の中で一番力が強いとはいうけれど、そんなのは嘘だと思った。


美しい指の腹が、爪が、唇を、歯茎を、頬を、舌を、顎の裏側を、上顎を、喉の入口を容赦なく蹂躙していく。

腕も足も力が入らない。

両目からとめどなく涙が流れ頬を濡らす。

甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘い、甘美という言葉の意味を真に理解できない僕にとってその感覚は恐怖以外の何者でもなかった。

大量の蜂蜜をホースで口に流し込まれたような甘さに混ざり、チョコレートのような濃厚な甘さが時折流れ込む。甘味という形の暴力の濁流に呑まれ、呼吸が上手くできない。酸素を失った僕の意識は再度遠のいていく―――

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