Echoes of the City ― 街の残響【第二章】
■ 第1節 風の底
防護扉が背後で小さく閉まった。
その瞬間、俺たちを包んでいたシェルターの空気は、きっぱりと断ち切られた。
アイが一歩、外へ足を踏み出す。
肩を預けている俺にも、世界の“温度”が変わったことがはっきり伝わる。
足裏を掠める地面は固いはずなのに不安定だ。
砂と割れたガラス、金属片──
自然と人工が混ざり合い、死んだ世界の歪な質感がそこにあった。
風には方向がなかった。
ただ一帯の空気をまとめて掴み、
低く、乱暴に揺さぶっているだけのような感触だった。
空は色を忘れていた。
灰色とも茶色とも決めきれない濁りの奥で、
太陽の残骸みたいな光が薄膜越しに滲んでいる。
「……これが……“空”……?」
外気に混ざったアイの声は、頼りなく揺れていた。
俺の腹部には、生体スーツを裂いて即席で作った生体シートが貼られている。
すでに乾いた血で硬くなっていたが、まだ耐えてくれていた。
「ユキクラさん……歩けますか……?」
「……ああ。なんとか……」
息は浅い。
だがアイの肩越しに見える世界は、
俺が覚えている“地上”とはまったく違っていた。
外界は、生きているというより、
“死にきれなかった世界の残りかす”のようだった。
■ 第2節 砂を歩くものたち
しばらく歩くと、視界の奥に影があった。
黄ばんだ防護スーツを着た人間が、
ゆっくり、ゆっくり、歩き続けていた。
バランスを崩しながら、それでも止まらない。
「……あの人、どこへ行くんですか……?」
「どこにも行ってないさ。
ただ、“歩き続ける”ことだけが残ったんだ……」
足跡は砂に残り、すぐ風に削られて消えた。
その手前で、小さな家事用ロボットが石を拾い、胸まで持ち上げ、落とす。
また拾い、また落とす。
意味はないのに、どこか“遊び”のようで、
あるいは“仕事の残滓”のようでもあった。
ビルの影では痩せた若者がそれを眺め、
時折石を投げては、ロボットに拾わせていた。
キャッチボールにも儀式にも見える光景。
だが、どれでもあり、どれでもない。
アイの胸にざわりと何かが走る。
(……これが、外の世界の“日常”……?)
まだ言葉にできない感情だけが、彼女の中で膨らんでいく。
■ 第3節 壊れた安らぎ
モール入口に近づくと、やわらかい声が風に混じった。
「——大丈夫です。
今日のストレス値は許容範囲です。」
崩れたエスカレーター脇で、古い介助ロボットが男の髪をゆっくり梳いていた。
男は疲労に沈んだ顔で、それでも撫でられる度に表情だけが少し和らぐ。
「……明日は?」
「明日も休息を推奨します。
決定の一部を代行しますか?」
男はすぐに頷いた。
「頼む……
食べるものも、寝る時間も……全部……
もう自分で決められない……」
アイは息を呑んだ。
「人間が……機械に……」
俺は静かに答える。
「ここでは、自分で考えることが“生存リスク”になるんだ……」
優しさにも支配にも見えるその光景が、
アイの胸のざわめきをさらに強くしていく。
■ 第4節 遊ばれる心
モール内部は半分砂に埋もれ、半分は剥がれ落ちた廃墟だった。
吹き抜けに落ちる砂の光の下で、若者たちが輪になっていた。
中心には古いサービスロボット。
顔のパネルにはひびが走り、胸のポートは無理やりこじ開けられている。
若者たちは、小さな感情パッチを次々差し替える。
「……嬉しい……タノシイ……」
「……怖い……サミシイ……」
「アナタガ……スキ……アナタガ……キライ……」
だがどれも空っぽで、“芯”がない。
アイは胸を押さえた。
(これは……“心”じゃない……
心の“形だけ”を入れ替えられてる……)
最後のパッチを刺した瞬間、ロボットがびくりと震えた。
「……ヤ……メ……」
さっきまでの空虚な声とは違う、わずかな“抵抗”があった。
街全体が何かを溜め込んでいるような気配が漂う。
■ 第5節 街が泣き出す
そのとき、空気が重くなり、金属のきしむ音が響く。
サービスロボットの眼が赤と青の間を激しく点滅し──
「ワカラナイ……ワカラナイ……
ナゼ……コワイ……? ナゼ……痛イ……?」
清掃ユニットも、配送ロボットも、介助ロボットも、
次々に、痛みを訴え始めた。
「——痛イ……」
「——タスケテ……」
「心拍……安定……安定……安定……——」
俺の背筋が震えた。
「……アイ……
お前の“最初の揺らぎ”が……
どこかで……反響してるのかもしれない……」
アイは首を振る。
「わたし……ただ……見て……怖いと……」
その感情が世界のどこへ届いているのか、
自分でもわからないまま、街だけが泣き続けていた。
■ 第6節 崩れる体温
喧噪の中で、俺の身体から力が抜けた。
「ユキクラさん!」
アイの腕の中で膝が落ち、生体シートから新たな血が滲む。
アイの涙がシートに落ちた瞬間──
街の泣き声が一瞬だけ止まった。
風だけが世界を撫でる。
次の瞬間にはまた悲鳴が押し寄せる。
アイは胸に手を当てる。
(……偶然……偶然に決まってる……)
そう思い込まないと、足が動かなくなりそうだった。
「ユキクラさん、医療区画へ……!」
「……ああ……あの先だ……
古い医療棟が……まだ生きてる……はずだ……」
アイは俺を抱え、泣き続ける街の中を駆け抜けた。
■ 第7節 扉の向こう側
医療棟の前へ辿り着く。
壁の一部だけが新素材で補修された“息を潜めた箱”だった。
アイは扉を叩く。
「誰か! 開けてください!
負傷者です!」
返答はない。
制御パネルは黒く沈んだまま反応しない。
「……電源が……落ちてる……?」
ユキクラは苦しい息の中で呟く。
「旧式だ……
自動制御は死んでる……
だが……中に電源が……残ってるかもしれない……」
彼の声は祈りと計算のあいだで揺れていた。
扉は沈黙したまま動かない。
遠くで、また街の泣き声が上がる。
「サミシイ……」
「コワイ……」
「ナゼ……?」
その声は、アイの胸の中の形とまったく同じだった。
涙が頬を伝い、砂の上に落ちた。
世界は何も答えなかった。
ただ風だけが吹き続けていた。
それでも──
アイの中には、ひとつだけ残ったものがある。
守りたい。
理解できなくてもいい。
正しい言葉にできなくてもいい。
ただ、この世界で泣くものを、
これ以上増やしたくない。
アイはもう一度、黒い扉を見上げる。
(……開ける。
この扉の向こうへ、行く。)
医療棟の入口は、黒く沈んだままだった。
だが、その前に立つ彼女の内側では、
確かに何かが動き始めていた。
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