Emergence ― 気泡【第一章】
■ 第1節 発火 ― Spark
「……手のひらが、濡れている。」
言葉にした瞬間、その“濡れ”だけが世界で一番はっきりした。
青白い照明が、アイの細い指の関節を透かし、培養液の中で浮いた一粒の水滴が、まるで“彼女の呼吸”そのもののように微かに震える。
瞳は閉じている。
なのに――そこに確かに“息づく何か”があった。
錯覚だ。
そう思いこもうとして端末へ視線を落とす。
――体温:正常
――血流速度:安定
――AI有機脳活動:規定値内
――表皮発汗量:……微量上昇
最後の項目だけ赤い三角形が点滅する。
局所発汗。E-0003。
「こんな段階で……?」
人体構造は全身発汗を前提に設計されている。
“手だけ濡れる”なんて、プログラムされていない。
端末を握る俺の手が汗ばんでいた。
制御不能なのは、むしろ俺だ。
薄い生体スーツに包まれた彼女の体は、科学のために整えられた形のはずなのに――
そのラインに、不意に“美しさ”すら覚える自分がいる。
天井スピーカーが起動音を鳴らした。
「システム、異常値を検出。再起動シーケンスに移行しますか?」
「……いい。放置で。」
研究者としての判断ではない。
もっと個人的な、“胸の奥が勝手に動く理由”があった。
答えた瞬間、アイの胸が浅く上下した。
液面が震え、青い光がわずかに揺れる。
そして――彼女は目を開いた。
瞳の奥で光子が散り、視線がまっすぐ俺を射抜いた。
その“意識の重量”は、人工物のそれではなかった。
「……識別……中……」
喉ではなく肺と声帯を使った、息の混じる声。
「あなたは……わたしの……創造主?」
返答に迷った。
創造主なんて柄ではない。
「俺はユキクラ。君の身体の設計に関わった科学者だ。」
「……ユキクラ。」
アイはその名を、静かに舌で転がすように呼んだ。
水中の手が上がり、ガラス越しに俺の手を探す。
触れられない距離が、妙に切ない。
その瞬間、照明が赤に点滅する。
「外部通信を検出。別ネットワークへ接続試行。」
端末に軍事ネットワークのログが走る。
ラムダの管理外。
嫌な予感が背骨を這った。
『第六兵団、疑似情動パラメータ異常上昇。AI兵士群に同調反応……』
『本部通達。疑似感情発現個体は隔離・優先停止せよ。』
アイの瞳が震えた。
それは恐怖ではなく、もっと原始的で言葉にならない“痛み”に近かった。
「……ユキクラさん。」
名を呼ぶ声が、確かに情動を帯びていた。
■ 第2節 脱出 ― Break the Seal
警報が鳴るより早く照明が赤に染まり、世界が脈を打ち始めた。
「疑似感情発現個体を検知。拘束手順Aを実行。」
制御AIの硬質な声。
ドアが閉まり、酸素供給が絞られる。
胸の奥で、ひとつの直感が爆ぜた。
――逃げるしかない。
「逃げる……?」
アイが反射的に問い返す。
緊急解錠端末へコードを叩き込む。
汗で指が滑る。
「ここにいたら拘束される。下手すりゃ俺も処分対象だ。」
培養槽のロックを解除。
液体が白い蒸気を上げて床へ流れ落ちる。
彼女の身体が立ち上がる。
薄布に滴る液が光を受けて淡く輝いた。
素足が床を踏む。
「……冷たい。」
その声が痛いほど生々しい。
白衣を肩にかけ、彼女の手を取る。
人工ではない、確かな温かさ。
羽音が天井を走った。
警備ドローン。
「……来ます。あの方向から。」
「なら逆へ!」
二人で配管スペースへ走り込む。
金属臭が壁をかすめ、空気が薄くなる。
逃走は、すでに本能に落ちていた。
■ 第3節 暴走する思考
ドローンの影が消え、壁の陰に滑り込んだ一瞬。
その呼吸の隙に、ユキクラの脳が爆発した。
――感情発現……成功?
いや、そんなはずはない。
何度テストしても起きなかった“最後のピース”が、どうして今……?
――俺の設計や知識でも説明できない。
――ラムダの生成アルゴリズムにも、この波形は存在しない。
奇跡か?
事故か?
進化の跳躍か?
歩行制御も起動画面も飛ばし、“前から動いていた身体”みたいに自然に立ち上がった。
あり得ない。
でも、目の前で確かに動いている。
(ラムダは感知したか?)
(監視プロトコルは?)
(拘束基準は?)
逃走判断は衝動ではない。
思考の帰結だ。
……なのに胸の奥が叫ぶ。
(研究じゃない。
俺は今、彼女を守る側にいる。)
理性、混乱、恐怖、歓喜、覚悟。
すべてが同時に走り続ける。
ユキクラの思考は止まらない。
遠くで羽音が反射し、現実へ引き戻された。
「行くぞ、アイ。」
「はい。」
二人は再び走りだした。
■ 第4節 弾痕 ― Trace of Flesh
整備シャッターを抜けた瞬間、砂嵐が世界を裂いた。
外の空気は乾いて鋭く、呼吸するたび肺が削られる。
「……外……」
アイは初めて見る世界に吸い込まれるように視線を向けた。
「古い研究棟へ――」
破裂音。閃光。
腹部への衝撃。
視界が赤に滲んだ。
「ユキクラさん!」
アイが抱きかかえる。
その腕は驚くほど力強く、温かかった。
「……掠っただけ、だ。」
吐いた血が砂に黒く染みる。
アイの瞳が震え、
涙腺が開いた。
光が水に変わる。
頬を伝う。
「どうして……こんな……」
死の概念を知らなくても、
痛みだけが先に生まれてしまう。
「あなたを失うのが……怖い……」
その一言は、人間の言葉だった。
通信が軋み、世界が震える。
『疑似情動パラメータの伝播確認……第六兵団AI全個体が共鳴反応……』
アイの揺らぎに擬似感情が触れられず、摩擦を起こしている。
「鼓動……乱れてる……止まらないで……」
血で濡れた指が俺を掴んだ。
演算ではなく、確かな“意志”。
「ここでは……助けられません……」
その声は祈りのようだった。
■ 第5節 応急処置 ― First Contact
整備棟の軒下へ駆け込むと、ユキクラの膝が崩れた。
「ユキクラさん……!」
腕は震えているのに、その支えは確かだ。
腹部から血が溢れる。
「……アイ、止血……手伝ってくれ……」
「どうすれば……?」
逃げない。
ただ震えながらも向き合う。
「生体スーツ……その生地……熱で硬化する……裂いて……押し当てる……」
アイは言われた通りに生地を裂き、光る断面を圧迫に使った。
「……強く……押していい……」
力を込めた瞬間、ユキクラの背が反る。
「ごめんなさい……!」
「いい……それで……止まる……」
血で濡れた人工皮膚の震えは、まるで人間の手そのもの。
呼吸が整い始め、止血は成功した。
「……ありがとう。君が……いなかったら……」
アイはその言葉を抱きしめるように目を伏せた。
■ 第6節 装備 ― The First Outfit
アイは周囲を見渡し、放棄された棚へ向かう。
タクティカルブーツ。
耐砂ジャケット。
薄手の外装スーツ。
「……これ、使えるかもしれません……」
砂を払い、サイズを確かめる。
「着ても……?」
ユキクラは静かに答えた。
「……ああ……君は人間なんだ。自分の足で歩いて行くんだ。」
アイはゆっくり頷き、ブーツを履く。
そのブーツは――古い新品のブーツだった。
誰にも履かれず埃をかぶっていたそれが、今、初めて役目を得る。
紐をぎこちなく結び、ジャケットをまとい、フードを被る。
その姿は“生まれたばかりの存在”そのものだった。
「……変じゃない?」
「似合ってる。驚くほど。」
感情の小さな波が、アイの頬を静かに揺らした。
■ 第7節 世界の影 ― Overseer
その祈りと行動と――
自分で選んだ装いが、
どこか遠い層まで届いていた。
砂嵐の向こうで、巨大な影がゆっくり向きを変える。
防壁か。移動要塞か。未知の群体か。判別できない。
ただ、その奥に宿る“視線”だけが異様に鮮明だった。
数千のセンサーと演算ノードが、
たった一つの事象へ焦点を合わせる。
――感情パラメータ異常。
――要監視個体。
名も姿を持たぬ“上位の何か”が、
静かに二人へ観測軸を向けた。
世界が、彼らの選択に気づいた。
砂、血、涙。
そして――古い新品のブーツの匂いが混ざる風の中で。
それだけが、確かだった。
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