第三章 溶け合う温度

 狭い部屋の中に、ブラウニーの甘い香りと、少し冷たい夜の空気だけが残っている。

 枕元で目覚まし時計のアラームが鳴った。

 開き切らない目をこすりながら体を起こす。


 今日は仁人さんが来る予定の日のはずだが、昨日の夜も連絡がつかなかった。


(……今日渡せるかな)


 ふとよぎる不安を振り払うように頭を振る。

 朝のひんやりとした空気が、寝ぼけていた頭を目覚めさせた。


「あ」


『今日着くの少し遅い』


 スマホの画面が光り、届いたばかりのメッセージが表示される。

 そこには先ほどの不安を消し去る内容が書かれていた。


(……よし、掃除しよ)


 温かい掛布団を勢いよくはがして立ち上がる。

 キンキンに冷えた床の上を歩き、洗面所へ向かった。




 キッチンの掃除を終えた悠は、冷蔵庫に仕舞われたブラウニーを見ていた。

 家の中を一か所掃除するごとに、何気なく冷蔵庫の扉を開ける。

 何度確認しても変わったところはなかった。


「……ふぅ、なにやってんだろ」


 ブラウニーの隣に仕舞ってあった炭酸飲料を手に取る。


 飲み口に口をつけようとしたとき、玄関から鍵を差し込む音が聞こえてきた。

 慌てて冷蔵庫を閉めて玄関へ向かう。


「おっ、おかえり!」

「……ただいま。遅くなってごめんね」


 久しぶりに見た仁人の顔は、目元に少し隈があって疲れているのが伝わって来た。

 着ているスーツも少し皴(しわ)になってしまっているようだった。




 仁人はコートを脱ぎハンガーにかける。


「……」

「……」


 二人の間に流れる空気は、どこか重い。

 お互いに言いたいことはあるが、どう切り出したらいいかわからないといった顔だ。


「……遅くなってごめん」

「仕事忙しかったんでしょ。仕方ないよ」


「……」

「……」


 ……会話が弾まない。

 ……気まずい。


「あ、ちょ、ちょっと待ってて!」


 驚きながら返事をする仁人をリビングに置き去りにして冷蔵庫の前に立った。

 ラッピングに入りきらなかったブラウニーを皿に移す。

 疲れたら甘いもの、と頭の中で唱えながら湯を沸かして紅茶を用意する。

 先に着替えを終えてこたつに入っていた仁人は、こくりこくりと舟をこぎ始めていた。


「お待たせ」

 

 座っている仁人の前にブラウニーを置く。


「ん、買ってきたの?」


 目を覚ました仁人が、前に置かれた皿を見てたずねる。


「……んーん、これは、俺が作った」


 まだ眠そうな様子だった仁人の目が、ぱっちりと開かれる。


「えっ? これ、悠が作ったの?」

「そ、そう。大分友達に手伝ってもらったけど」


「……」

「……」


 しばらく固まっていた仁人が、無言のままブラウニーに手を伸ばす。


「……おいしい」


 仁人がこぼしたのはこの一言だけだった。


「……ほんと?」

「うん。本当に、すっごく美味しい」


 悠は、自分の顔と耳が熱くなっていくのを感じた。

 咄嗟に後ろを向く。


「お、俺の分もとってくる!」

「ん、わかった」


 ちらりと盗み見た仁人は、本当においしそうにブラウニーを頬張っていた。




 皿の上に置いたフォークが、カチャリと音を立てる。


「ふぅ、ブラウニーって意外とお腹にたまるんだ」

「ふふ、口の横にお弁当が付いてるぞ」


 久しぶりに穏やかな時間が流れている。


「ごめんね。最近会いにいけなくて」

「……うん」


それ以上、言葉は続かなかった。

でも、仁人は視線を逸らさなかった。




 二人はお互い向き合って座る。

 一人だと寒い部屋も、二人でいれば温かい。

 仁人は、空になりかけた皿を見つめていた。

 あと一かけら、ブラウニーが残っている。

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