第9話 天国行きは選べません!
「天国行きなんて、そんな甘いものじゃないわ」
不意に声をかけてきたのは、住人の一人、毒舌な「元女将」だった。
「あんた、さっき『ここなら甘えられる』なんて思っただろ? 甘いね。ここは、忘れる苦しみと戦う場所だよ。自分が誰だか分からなくなる恐怖……あんた、耐えられるのかい?」
女将の言葉は重かった。
彼女は毎日、自分の名前を忘れないように、腕にマジックでびっしりと自分の経歴を書いている。だが、翌朝にはその文字の意味さえ分からなくなるのだという。
「私はね、天国に行きたいんじゃない。ただ、『私』として死にたいだけなんだ」
その時、施設のチャイムが鳴り響いた。
夕暮れ時。いわゆる「黄昏時」の始まりだ。
「ヒィィィ! 来る! 奴らが来るぞ!」
男性陣の一人、ギャンブル狂の老人が叫び、テーブルの下に隠れた。
窓の外を見ると、空が不気味な紫色に染まり、屋敷の影が怪物のように伸びている。
「なるみ、気をつけて」
蝶子の声が、これまでにないほど真剣味を帯びた。
「これから始まるのは、認知症の世界で最も恐ろしい時間……『夕暮れの混乱(サンダウニング)』よ。住人たちの不安が実体化して、この屋敷を飲み込もうとするわ」
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