第3話 沈みゆく記憶
「ジジジバババーン……? 何そのふざけた名前」
「ふふ、でも今のあなたにはお似合いよ」
蝶子が指をパチンと鳴らすと、周囲の真っ白な空間が霧のように晴れていった。
現れたのは、巨大な和風建築の屋敷。いや、それは介護施設にも見えるし、豪華な旅館のようにも見える不思議な建物だった。
「ここは、記憶をなくした者たちが、最後にもう一度『自分』を取り戻すための場所。あるいは、全てを忘れて無に帰るための待合室」
私が呆然としていると、建物の奥からドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。
「おーい! 新入りか!? 女か!?」
「おい、押すなよ。俺が一番に拝むんだ」
現れたのは、一癖も二癖もありそうな老人たちの集団。
だが、よく見ると彼らの背後には、異様にガタイのいい男や、後光が差しているような美女たちが控えていた。
「なるみさん、紹介するわ。あちらにいるのが、この世界の住人12人。そして彼らを支える……いえ、『介護士』という名の神様たちよ」
その中の一人、筋肉隆々の大男――剛腕のゴウが、私を軽々と抱き上げた。
「おっと、随分と軽いな! おばあちゃん、歓迎するぜ!」
「ちょっと! 降ろしなさいよ! 私は28歳なの! 中身は現役バリバリの会社員なんだから!」
暴れようとしたが、やはり力が入らない。
それどころか、急に自分が何をしようとしていたのか、一瞬だけ分からなくなった。
(あれ……? 私、今、何を怒ってたんだっけ……?)
「……なるみ、今の感覚を覚えておきなさい」
蝶子の声が、耳元で冷たく響く。
「それが認知症の世界。あなたの記憶は、これから少しずつ、この世界の霧に溶けていく。完全に忘れてしまう前に『徳』を積み、帰還チケットを手に入れられるかしら?」
私の頭の中で、大切な何かがパズルみたいにバラバラになっていく感覚がした。
仕事の締め切り。
昨日の晩ごはん。
母の泣き顔。
……それらが、遠い夢のように霞んでいく。
「やだ……忘れたくない! 私、帰りた――」
言いかけた言葉は、ゴウが差し出した一口の「絶品ムース食」によって遮られた。
「ほら、おばあちゃん。美味いぞ」
「むぐっ……(美味しい……)」
悔しいことに、その一口は、これまで食べたどんな高級料理よりも優しく、体に染み渡った。
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