第1章 おばあちゃん、重いわね

第1話:なるみの日々

第1章:おばあちゃん、重いわね

浴室の湯気は、まるで意志を持っているかのように私の喉に絡みついた。

冬の脱衣所は寒く、浴室は熱い。この温度差だけで、28歳の健康なはずの体力がゴリゴリと削られていく。

「おばあちゃん、危ないから座って。座るの!」

「いや……いやだぁ……お母ちゃんが来るんだよ……」

八千代の言っている「お母ちゃん」とは、とうの昔に亡くなった曾祖母のことだ。認知症という病は、時間をグニャリと曲げてしまう。今の彼女にとって、私は孫のなるみではなく、「お風呂に入れようとする謎の侵入者」なのだ。

「もう……お母ちゃんなんて来ないの! 私はなるみ! 孫のなるみなの!」

叫んだところで、彼女の耳には届かない。八千代は私の腕をギチギチと爪が食い込むほど強く握りしめた。痛い。本気で痛い。

介護を始めてから、私の腕はいつも青あざだらけだ。

「はぁ……はぁ……。お願いだから、大人しくして……」

ようやく洗い場に座らせ、シャワーをかける。八千代は小さく「ひぃ」と声を上げ、猫のように背を丸めた。

石鹸を泡立てながら、私はふと考える。

もし、このまま時間が止まったら。

もし、このままおばあちゃんが、消えてしまったら。

そんな残酷な思考が頭をよぎるたびに、猛烈な自己嫌悪が襲ってくる。

私は冷酷な人間なのだろうか。それとも、これが「介護」をしている人間の正常な防衛本能なのだろうか。

「……なるみ、なるみ、交代するよ」

浴室の扉が少しだけ開き、疲れ果てた顔の母・三千代が顔を出した。

「いいよ、お母さん。もうすぐ終わるから」

「ごめんね……。お父さんがあんなだし、あなたにまで苦労させて」

「お父さんのことは言わないで。腹が立つだけだから」

そう、父・佐々礼。彼は今日も「仕事が忙しい」という魔法の呪文で、リビングのソファから一歩も動かずにテレビを眺めている。八千代が暴れようが、三千代が悲鳴を上げようが、彼は見えない壁の向こう側にいるのだ。

「……あ」

その時、八千代が急に立ち上がった。

「お母ちゃん! ほら、そこにいるよ!」

「ちょっ、おばあちゃん、危ない!」

床は石鹸の泡でヌルヌルしている。八千代はふらつき、あろうことか浴槽の縁に足をかけた。

「待って! ダメ!」

私は慌てて、彼女の腰にしがみついた。

しかし、認知症老人の「火事場の馬鹿力」を甘く見ていた。

八千代の体は、私の予想を遥かに超える勢いで前方へと倒れ込む。

「あっ――」

視界が、上下逆さまになった。

お湯の熱さが顔全体に広がる。

八千代の細い体が、私の上に重なる。

必死に彼女を押し上げようとするが、水を含んだ衣類と石鹸の滑りで、思うように力が入らない。

「お母さん! 助けて! お母さ……」

ゴボリ、と口の中に水が入った。

鼻の奥がツンとして、肺が熱い。

バタバタと暴れる八千代の足が、私の腹を蹴る。

重い。

やっぱり、おばあちゃんは重い。

(……ああ、もう、嫌だ)

そう思った瞬間。

私の意識は、真っ白な泡の中に溶けて消えていった。

【次回予告】

気がつくと、そこは湯気の向こう側。

目の前に現れたのは、派手な着物を着た自称・神様の「蝶子」。

そして、なるみの姿に異変が……。

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