第1章:氷の城の再会と青い薔薇の幸福論
第6話 孤児のレア
世界は、いつからこんなにも寒くなってしまったのだろうか。
窓の隙間から吹き込む風が、蝋燭の頼りない灯りを揺らしている。
薄い毛布にくるまりながらレアは指先に息を吹きかけた。
かじかんだ指先は赤く腫れ、感覚が鈍くなっている。
割れたガラスの破片のような曇天。そこから絶え間なく降り注ぐ白い悪魔が、この辺境の孤児院を、いや、この王国すべてを埋め尽くそうとしていた。
(⋯⋯一五年前は、もう少しマシな気候だったはずだけど)
レアは窓ガラスに映る自分の顔を、どこか他人事のように見つめた。
色素の薄い銀色の髪。冬の湖面のような琥珀色の瞳。
栄養失調気味で痩せっぽちだが、その顔立ちは驚くほど整っている。
今年で一五歳になる少女。それが今の自分の器だ。
けれどその中身には、別の記憶が澱のように沈殿している。
レン・アシュトン。
かつて公爵家の従者として生き、主人の盾となって死んだ男の記憶が。
「⋯⋯寒い」
少女の細い喉から男の記憶が漏れ出る。
あの日。王宮の雪の庭で腹に太い鉄の塊をねじ込まれて死んだ日も、こんな雪が降っていた。
あの時、自分は確かに死んだはずだ。
愛する主シルヴィア・エルンストを逃がし、役割を全うして。
それなのに、なぜ神様は自分を再びこの世界に放り込んだのだろう。
しかも、こんなか弱い少女の体を与えてまで。
レアはそっと自分の胸に手を当てた。
鼓動が聞こえる。生きている。
だが、その生に熱はない。
レンとしての人生はあの日、シルヴィアを守りきった瞬間に完結したのだ。
だから今のレアとしての人生は、言うなれば「残りカス」のようなもの。物語のエンドロールが終わった後に続く、蛇足の映像。
生きる目的も守るべき主もいない。
ただ無為に、この凍てつく世界で息をしているだけの存在。
それがレアという少女の自己認識だった。
* * *
この国――ランベルト王国はゆっくりと、しかし確実に死に向かっていた。
原因は「氷の魔女」と呼ばれる存在の出現と、それによる異常気象だ。
北の地を支配するその魔女は、ある時期を境に強大な冷気を撒き散らし始めた。
その結果、冬は年々長くなり作物は育たず獲物の減った魔物は凶暴化する。
皮肉な話だ、とレアは思う。
一五年前の政変で、悪役令嬢だったシルヴィア・エルンストは追放され、正義の聖女リナと王太子シリルが国を導くことになったはずだ。
ゲームのシナリオ通りなら、そこには輝かしいハッピーエンドが待っていたはずなのに。
現実は残酷だった。
愛嬌と『聖女の力』しか持たないリナ王太子妃に、複雑な内政や外交ができるはずもなかった。
そして、彼女に骨抜きにされたシリル王太子もまた、実務能力においては凡庸以下だった。
かつて国の影で汚れ仕事を一手に引き受けていたエルンスト公爵家の不在は、ボディブローのように国力を削ぎ落としていったのだ。
結果が、これだ。
貧困にあえぐ民。燃料すら買えない孤児院。
曇天に覆い尽くされた天上に聖女の祈りはまったく届かない。
「みなさん、広間に集まってください」
院長の疲れた声が響いた。
レアは毛布を畳み、他の子供たちと一緒に部屋を出た。
廊下は冷蔵庫の中のように冷え切っている。幼い子供たちが青い顔をして身を寄せ合っていた。
広間には見慣れない客がいた。
厚手の毛皮のコートを着込んだ男だ。胸には王家の紋章が入っている。
王都からの使者、その使いっ走りだろう。
その男は露骨に不快そうな顔で鼻をつまんでいた。貧民特有の匂いか、あるいはカビの匂いが気に入らないらしい。
「単刀直入に言う。勅令である」
男は尊大な態度で、羊皮紙を広げた。
「北の地を統べる『氷の魔女』より、王都へ要求があった。怒りを鎮めてほしくば、我の城へ奉仕する者を寄越せ、とな」
「そ、それは⋯⋯つまり、生贄ということですか?」
院長が震える声で尋ねる。
男はふんと鼻を鳴らした。
「人聞きの悪いことを言うな。あくまで『労働力』の提供だ。だがまあ、あの魔女のことだ。気に入らねば氷像にされるか、魔物の餌になるかは知らんがな」
広間に子供たちの悲鳴にも似たざわめきが広がった。
氷の魔女。
その名は、今や泣く子も黙る恐怖の代名詞だ。
北の果てにある氷の城に住まい、近づく者を無差別に凍らせる化け物。
王国の騎士さえも歯が立たず、国は定期的にこうして物資や人を送ってご機嫌取りをするしかないのだという。
「この孤児院から一名を選出せよ。年齢は一〇歳以上、一八歳未満。健康な女子が望ましい」
男の視線が値踏みするように子供たちを舐める。
視線が合った子供たちが恐怖で縮み上がった。
院長が蒼白な顔で懇願する。
「お、お待ちください! この子たちはまだ幼く⋯⋯それに前回、食料の供出に応じたばかりではありませんか!」
「黙れ! 今が国難だとわからぬか! 貴様らのような穀潰しを養ってやっている恩を、こういう時こそ返すのが筋であろう!」
男の怒声に院長が押し黙る。
誰も何も言えなかった。
逆らえば孤児院ごと取り潰される。そんな無言の圧力が場を支配していた。
誰かが、行かなければならない。
誰かが、死にに行かなければならない。
子供たちのすすり泣く声が聞こえる。
まだ恋も知らず、美味しい料理も食べたことがない子供たち。
未来ある命。
(⋯⋯ああ、なんだ)
その光景を見ていて、レアの心にすとんと落ちるものがあった。
恐怖はなかった。
むしろ、安堵に近い感情が湧き上がっていた。
ここにあるのは「誰を選ぶか」という残酷な椅子取りゲームだ。
ならば答えは簡単じゃないか。
一番、価値のない人間が座ればいい。
未来への希望もなく、生きる執着もなく、ただ過去の残滓として漂っているだけの人間が。
レアは一歩、前に進み出た。
銀色の髪が、薄暗い部屋の中で一筋の光のように揺れた。
「――私が参ります」
凛とした声だった。
一五歳の少女の声ではない。もっと落ち着いた、覚悟を決めた大人の響き。
院長が目を見開く。
「レ、レア!? 何を言って⋯⋯いけません、あなたはまだ⋯⋯!」
「院長先生。誰かが行かねばなりません」
レアは静かに微笑んだ。
それは諦念と慈愛が入り混じった、不思議な笑みだった。
「私は身体も丈夫ですし、掃除や洗濯も得意です。きっと、魔女様のお役にも立てるでしょう」
「でも⋯⋯死ぬかもしれないのよ!?」
「ええ。ですが、ここにいても飢えて死ぬだけです。なら、少しでもみんなの役に立って散るほうが、有意義ではありませんか」
合理的すぎる言葉に、院長は言葉を詰まらせた。
使者の男が興味深そうにレアを見る。
「ほう。貧相だが顔立ちは悪くない。魔女への手土産としては上等だろう」
男は下卑た笑みを浮かべ、レアの手首を掴んで引き寄せた。
乱暴な扱い。まるで品物を検分するような手つき。
けれどレアは抵抗しなかった。
道具として扱われることには、慣れている。
前世でずっと、そう自分に言い聞かせて生きてきたのだから。
「決まりだな。出発は一時間後だ。支度をしておけ」
男が手を離すとレアは恭しく一礼した。
背後で幼い子供たちが泣きながらレアの名前を呼んでいる。
ごめんね、レアお姉ちゃん。行かないで。
そんな声を聞きながら、レアの胸中は静かな湖のように凪いでいた。
(これでいい)
自分の命など、一五年前に使い切ったはずのものだ。
それが今日まで伸びたのは、この瞬間のためだったのかもしれない。
幼い子供たちを守るための、捨て石。
悪くない最期だ。
前世では、たった一人の主のために死んだ。
今世では、名もなき子供たちのために死ぬ。
常に誰かの盾として消費される人生だが、それが自分らしくていいとさえ思った。
* * *
一時間後。
レアを乗せた馬車は、鉛色の空の下を出発した。
鉄格子の嵌まった護送用の馬車だ。隙間風が容赦なく体温を奪っていく。
ガタガタと揺れる車内で、レアは膝を抱えていた。
向かう先は北の果て。
かつてレン・アシュトンが命を賭して、シルヴィアを逃がした場所。
「氷の魔女、か⋯⋯」
白い息とともに言葉がこぼれ落ちる。
噂によれば魔女は冷酷無比で、人の血が通っていないかのような残虐さを持つという。
近づく者を氷漬けにし、永遠に解けない呪いをかける。
「そんなわけ、ないよね⋯⋯」
きっと恐ろしい老婆か、あるいは人外の怪物なのだろう。
レアはそう想像していた。
馬車は北へ進む。
雪は激しさを増し、世界を白く閉ざしていく。
それはまるで一五年前から止まってしまった二人の時計を、再び動かそうとする運命の足音のようだった。
レアの琥珀色の瞳が、流れる景色をぼんやりと映している。
その瞳の奥には、恐怖よりも、どこか懐かしさに似た色が宿っていた。
死に場所へ向かうというのに、不思議と心が軽かった。
まるで長く遠い旅を終えて、家に帰るような感覚。
そう。彼女はまだ知らない。
その旅の終着点に待っているのが、死よりも重く、甘く、そして狂おしいほどの『愛』だということを。
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悪役令嬢の盾として死んだ俺、美少女へ転生して彼女(氷の魔女)と結ばれる 抵抗する拳 @IGTMJ
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