第5話 氷の魔女が生まれた日
肺が焼けるように熱い。
吸い込む空気は氷の刃のように鋭く、吐き出す息は鉄錆の味がした。
王宮の裏手に広がる庭園。手入れの行き届いた白銀の世界を二つの影が駆けていく。
レンはシルヴィアの手を引き、雪を蹴って走っていた。
彼の背中にはすでに数本の矢が突き刺さり、左腕はだらりと力が抜けている。
白い雪の上に点々と赤い花が咲いていく。
それでもレンの足は止まらない。
「はぁ、はぁ⋯⋯レン、もういい、もういいわ!」
背後でシルヴィアが悲鳴のように叫ぶ。
彼女の青いドレスもまた、レンの返り血で咲き乱れていた。
「私を置いて逃げなさい! このままでは、お前まで⋯⋯!」
「お断りします」
レンは短く答え、最後の力を振り絞って庭園の奥にある、あずまやへと飛び込んだ。
石造りの床にはレンが事前に用意しておいた魔法陣が淡く発光している。
転移魔法陣。
魔力を充填するのに時間がかかるため、あらかじめ起動出来るようにしておいた最後の切り札。
「ここに乗ってください」
「嫌よ! 一人では行かない!」
シルヴィアがレンの腕にしがみつく。
その力はか弱く、震えていた。
追っ手の足音が近づいてくる。雪を踏みしめる軍靴の音。鎧の擦れる音。
もう、時間がない。
レンは血に塗れた手でシルヴィアの肩を掴んだ。
そして、乱暴に魔法陣の中へと突き飛ばした。
「きゃっ⋯⋯!?」
尻餅をつくシルヴィア。
レンは即座に懐から魔石を取り出し、陣の起動詠唱を始める。
魔法陣が眩い光を放ち始め、空間が歪み出す。結界が張られ、内側からはもう出られない。
「レン! 何をするの! やめて!」
透明な壁を叩くシルヴィアの瞳から大粒の涙が溢れ出していた。
レンは結界の外側に立ち、愛おしい主人の姿を目に焼き付けるように見つめる。
視界が霞む。出血多量で意識が飛びそうだ。
けれど、最後にこれだけは伝えなくてはならない。
「⋯⋯お嬢様。いいえ、シルヴィア様」
レンは、いつもの恭しい従者の仮面を脱ぎ捨てふわりと柔らかく笑う。
それはただの青年としての最初で最後の笑顔だった。
「生きてください。どんなに泥を啜っても、世界中から後ろ指を指されても⋯⋯あなたには生きていてほしい」
「嫌⋯⋯嫌よ⋯⋯置いていかないで⋯⋯!」
「あなたは強い人だ。私がいなくても、きっと一人で立てる」
「立てない! お前がいなきゃ、私は⋯⋯!」
光が強くなる。転移が始まる。
レンはガラスのような結界越しに彼女の手のひらに自分の手を重ねた。
触れ合うことはできず、ぬくもりも伝わらない。
それでも、これが今生の別れだ。
「――愛しています、シルヴィア」
音になったかどうかも分からないほどの、小さな呟き。
次の瞬間、閃光があずまやを包み込んだ。
「レェェェェェンッ!!」
魂を引き裂くような絶叫を残し、シルヴィアの姿がかき消える。
後に残ったのは静寂と、舞い落ちる雪だけ。
レンは力が抜けたように膝をつきそうになったが、踏みとどまった。
まだだ。まだ倒れるわけにはいかない。
彼女が確実に逃げ延びる時間を稼ぐまでは。
「⋯⋯見つけたぞ、逆賊め!」
背後から怒号が響いた。
振り返ればそこには数十人の騎士たち。
そしてその中心には白銀の鎧を纏った男――近衛騎士団長ゲオルグが立っていた。
ゲームにおける攻略対象を息子に持つ父親であり『正義』を信奉する堅物。
「魔女はどこだ! 貴様、逃がしたのか!」
「⋯⋯さてね。地獄へ先導してやったのかもしれませんよ」
レンは口元の血を拭い、長剣を構え直した。
左腕はもう動かず肋骨も数本折れていて、もとより少ない魔力も底を尽きかけている。
対するは万全の状態の騎士団長と精鋭たち、勝算など万に一つもない。
「愚かな。たかが従者が国を敵に回して何になる」
ゲオルグが侮蔑の眼差しを向ける。
レンは鼻で笑った。
「国? はは、そんなちっぽけなものなんて、どうでもいいですよ」
レンは肺に残った最後の空気を吸い込む。
前世では誰かを守るために体を張ることなんてなかった。
ただ流されるままに生き、孤独に死んだ。
でも今は違う。
背中には守り抜いた命の重みがある。心には彼女から貰った温もりがある。
なんて晴れやかな気分だろう。
「俺にとっての世界は、あの人一人だ。彼女がいない世界になど、価値はない」
レンの言葉にゲオルグが眉をひそめた。きっと理解できないだろう。彼ら掲げる正義とやらは多数決で決まる安っぽい正義なのだから。
「行くぞ。我が命尽きるまで、一歩も通さん」
レンが地を蹴った。
それは死地への突撃。
雪煙を上げ、傷だらけの狼が獅子の群れに牙を剥く。
剣戟の音が響き渡る。
火花が散り、鮮血が雪を汚す。
レンの剣技は鬼気迫るものがあった。
片手一本で襲いかかる刃を弾き、流し、急所を狙う。
一人、また一人と騎士が倒れていく。
だが、限界は無慈悲に訪れる。
ズドッ。
鈍い音がして、レンの腹部にゲオルグの大剣が深々と突き刺さった。
「⋯⋯が、ぁ⋯⋯」
熱い鉄の塊が体内を掻き回す感覚。
口から大量の血が溢れ出す。
それでもレンは剣を手放さなかった。
突き刺さった大剣を自らの筋肉で締め上げ、ゲオルグの動きを封じる。
「なっ⋯⋯貴様、まだ⋯⋯!」
「⋯⋯まだ、だ⋯⋯わずかでも、1秒でも⋯⋯」
レンは残った右手の剣を振り上げ、ゲオルグの首筋へと叩き込む――ことはできなかった。
周囲の騎士たちの槍が、一斉にレンの体を貫いたからだ。
四方八方からの刺突に穿たれ、体中の感覚が一瞬にして消し飛ぶ。
レンの体が、ゆっくりと傾いだ。
雪の上に仰向けに倒れ込む。
冷たい。
ああ、背中が冷たい。
でも、不思議と痛みはもう感じなかった。
視界が急速に狭まっていく。
暗闇が迫る中、レンは頭上の空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から一瞬だけ、青白い月が見えた気がした。
あのアイスブルーの瞳と同じ色。
(逃げ切れた、かな⋯⋯)
彼女は今頃、北の隠れ家に無事着いただろうか。
泣いていないだろうか。
きっと泣いているだろう。あの子は、強がりだけど泣き虫だから。
(独りにさせてごめん。でも泣かないで、シルヴィア)
(君は生きて。幸せになって)
(俺は⋯⋯君の盾になれて、幸せだったよ)
意識が途切れる寸前、レンの口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
まるで最高のアフタヌーンティーを楽しんだ後のように。
心臓の鼓動が、静かに止まる。
雪が降り積もり、彼の体を白く覆い隠していく。
かくして悪役令嬢の忠実なる従者は、その命を使い果たした。
物語の表舞台からレン・アシュトンという存在は永遠に消滅したのだった。
* * *
それから数ヶ月後。
王国の北端、極寒の地にある古城。
かつては離宮として使われていたその場所は、今や深い雪と静寂に閉ざされていた。
薄暗い広間の玉座に一人の少女が座っていた。
シルヴィア・エルンスト。
かつての煌びやかなドレスはない。喪服のような漆黒のローブを身に纏い、手には古びた杖が握られている。
彼女の目の前には水晶玉が置かれていた。
そこに映っているのは王都の様子、今まさに新しい王太子妃となった聖女リナとシリル王太子の結婚パレードが行われている。民衆は彼らを祝福し花吹雪が舞っているのが見えた。
誰も、無実の罪で追放された公爵令嬢のことなど覚えていない。
誰も、彼女を守って死んだ一人の青年のことなど語り継がない。
「⋯⋯くだらないわね」
シルヴィアが呟いた。
その声には、かつての鈴を転がすような愛らしさは微塵もなかった。
あるのは絶対零度の冷気だけ。
彼女の瞳からは光が失われていた。
レンという光を失ったあの日から彼女の世界は闇に塗り潰されたのだ。
心なんて、もう壊れてしまった。
残っているのは空っぽの器と煮えたぎるような妄執だけ。
「愛? 正義? 矜持? そんな不確かなものに頼ったから私は、奪われた」
シルヴィアは杖を床に突き立てる。
ドォン、と重い音が響き、城全体が震えた。
彼女の体から溢れ出すのは、おぞましいほどの魔力。
かつてレンが「君は強い」と言ったその才能は、皮肉にも歪んだ形で開花しようとしていた。
「もう要らない。何も要らない」
彼女は水晶玉の中の幸せそうな二人を睨みつけ、指先一つで映像をかき消した。
「必要なのは、力だけ。誰も私から何も奪えない、理不尽すらねじ伏せる絶対的な力だけ」
シルヴィアは立ち上がる。
その背後に、巨大な氷の影が揺らめいた。
それは彼女が契約した精霊か、あるいは彼女自身の心の闇が具現化したものか。
「見ていなさい、レン。⋯⋯この腐った世界を、私が作り変えてあげる」
彼女は虚空に向かって手を伸ばす。
そこにはもう誰もいないのに、まるで誰かの頬に触れるような手つきで。
「そして、いつか必ずお前を取り戻す。神の理(ことわり)を犯してでも、魂の欠片を地獄の底から拾い集めてでも⋯⋯」
薄暗い広間に狂気を孕んだ笑い声が響くことはなかった。
ただ、氷がひび割れるような、乾いた誓いの言葉だけが落ちた。
あの日、王国の歴史から「公爵令嬢シルヴィア」の名は消えた。
代わりに、北の地に住まう恐怖の代名詞――『氷の魔女』の伝説が、幕を開けたのである。
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