第3話 断罪の前夜


 冬の訪れを告げる風が、王都の空を鉛色に染め上げていた。

 学園の卒業パーティーを明日に控えたこの日、エルンスト公爵邸の空気は張り詰めた氷のように冷たく脆かった。


 事態はレンの想定よりも遥かに悪い方向へと転がっていた。

 まずシルヴィアの父、エルンスト公爵が病に倒れた。その頃から王太子シリルからの接触は完全に途絶え、学園内では「卒業パーティーで重大な発表がある」という噂がまことしやかに囁かれている。


 『重大な発表』。それがシルヴィアへの断罪と婚約破棄であることは、火を見るよりも明らかだった。

 もはや学園の生徒たちだけでなく、教師たちですらシルヴィアを「聖女を害する悪女」として遠巻きにしている。まるで伝染病患者でも扱うような、恐怖と嫌悪の入り混じった視線。

 

 レンは執務室で最後の手配を確認していた。

 転移スクロール、攪乱用の魔道具、そして別口に逃走用ルートの手配。

 すべては明日、彼女をこの地獄から逃がすための準備だ。


「⋯⋯レン」

 静かな声にレンは顔を上げた。

 いつの間にか入り口にシルヴィアが立っていた。

 夜着の上にガウンを羽織っただけの姿。化粧を落とした素顔は驚くほど幼く、そして青白い。


「お嬢様。お休みになっていらしたのでは」

「眠れるわけがないでしょう。⋯⋯明日は、私の処刑台に上る日なのだから」


 彼女は自嘲気味に笑うとレンの制止を聞かずに部屋に入り、長椅子に力なく座り込んだ。

 その言葉を聞いた瞬間、レンの中で抑え込んでいた焦燥が爆発した。

 レンは彼女の足元に跪き、懇願するように声を張り上げた。


「シルヴィア様、今からでも遅くはありません。領地へ⋯⋯いいえ、隣国へ逃げましょう」

「逃げる?」

「はい。手はずは整っています。今夜のうちに王都を出れば追っ手を撒くことも可能です。北の国境を越えれば王家の権力すらも及びません。名前を変え、身分を捨てれば、平穏に暮らすことだって⋯⋯!」


 レンは必死だった。

 ゲームのシナリオ通りなら、明日の断罪イベントの結末は「国外追放」か「修道院送り」だ。

 しかし今の異様な空気は、そんな生温い結末を予感させない。

 『悪しき魔女』としての処刑――あるいは、その場で騎士団による粛清。

 殺気が王都全体を覆っているのだ。だがシルヴィアは静かに首を横に振った。


「いいえ。私は逃げないわ」

「なぜですか! 命あっての物種です! 誇りなど生きていれば幾らでも取り戻せます!」

「違うの、レン」


 シルヴィアは、跪くレンの髪を優しく撫でた。

 その手つきは怯えた子供をあやす母親のように慈愛に満ちていて、レンは言葉を詰まらせた。


「私が逃げればそれは罪を認めたことになる。エルンスト家の娘として、覚えのない罪を背負ったまま生き恥を晒すことはできないわ。それは死ぬことよりも辛いことよ」


 その瞳に宿る光は凍てつく冬の星のように鋭く、美しかった。

 彼女は知っているのだ。

 逃亡の果てにある生がどれほど惨めで、泥に塗れたものになるかを。


 そして何より彼女自身の高潔さが卑怯な真似を許さない。

 たとえその高潔さが、彼女自身を殺す刃になるとしても。


(⋯⋯ああ、やはりこの人は)

 レンは奥歯を噛み締めた。


 彼女は気高い。

 誰よりも誇り高く、誰よりも強くあろうとした。

 そんな彼女だからこそ自分はこれほどまでに惹かれ、守りたいと願ったのだ。

 前世の記憶にあるゲーム画面の悪役令嬢とは違う。

 ここにいるのは不器用なほどに真っ直ぐな、一人の少女だ。


「⋯⋯レン。お前に、最後の命令があるの」

 シルヴィアの声が微かに震えた。

 彼女はレンの顔を両手で包み込み、真正面から見つめてくる。


「明日、もし私に何かが起きても⋯⋯お前だけは生きなさい」

「⋯⋯お嬢様?」

「私の道連れになることは許さない。お前は道具だといつも言うけれど、使い捨てにするつもりはないわ。私が断罪されたらお前は私との縁をすべて切り、自由になりなさい」


 それは彼女なりの精一杯の愛情だった。

 自分はもう助からないと悟っている。だからせめて唯一心を許した従者だけは助けたい。

 その不器用な優しさが、レンの胸を締め付けた。


 レンは、ゆっくりと瞬きをした。

 そして、演技の仮面を被る。

 これまでで最も忠実で最も従順な従者の顔を。


「⋯⋯御意」

 深く頭を下げた。

 床に額を擦り付けるほどの最敬礼。


(申し訳ありません、お嬢様。嘘をつくことをお許し下さい)

 生きろ? 縁を切れ?

 そんな命令、聞けるはずがない。

 

 ――あなたの盾として死ぬこと。

 それこそが、俺がこの世界に生を受けた意味なのだから。


 レンの計画は決まっていた。

 明日の断罪の場、騎士たちが剣を抜いた瞬間、自分が乱入する。

 そして自身の命と引き換えに時間を稼ぎ、用意した転移魔道具で彼女を強制的に北の地へ飛ばし、国外へと逃がす。


 彼女は怒るだろう。一生、自分を恨むかもしれない。

 それでもいい。彼女が生きてさえいれば。


「⋯⋯ありがとう、レン。お前がいてくれて、本当によかった」

 シルヴィアは安堵したように息を吐き、微笑んだ。

 それは死刑囚が最後の瞬間に見せるような、透明な笑みだった。

「最後にお茶を淹れてくれるかしら。とびきり美味しいやつを」

「かしこまりました。今すぐに」



     * * *



 嵐の前の静けさが、部屋を満たしていた。

 暖炉の火がパチパチと爆ぜる音と、時計の針が進む音だけが響く。

 レンが淹れた紅茶は今夜も完璧な出来だった。香りも、色も、温度も、これ以上ないほどに。


 シルヴィアはソファに座り、レンはその傍らに控える。

 会話はほとんどなかった。

 ただ同じ時間を共有しているだけで十分だった。


「⋯⋯ねえ、レン」

「はい」

「もし、生まれ変わることがあったら」


 シルヴィアが、ふと窓の外を見つめながら呟いた。

 雪が降り始めていた。窓ガラス越しに白い欠片が舞っているのが見える。


「次は公爵令嬢なんて堅苦しい立場じゃなく⋯⋯もっと自由な、普通の女の子になりたいわ」

「⋯⋯ええ。きっと、なれますよ」

「そうしたらお前も⋯⋯また私を見つけてくれる?」


 その問いかけにレンは胸が張り裂けそうになった。

 彼女は無意識に来世での再会を願っている。

 道具と主人としてではなく、一人の人間同士としての未来を。


 レンは彼女の前に進み出ると恭しくその手を取った。

 そして、手の甲に口づけを落とす。

 騎士の誓いではない。

 それは魂に刻み込むような、祈りの口づけだった。


「必ず。たとえ姿かたちが変わろうとも、私があなたを見つけ出します」

「ふふ。⋯⋯頼もしいこと」

 シルヴィアは満足そうに目を細め、やがて睡魔に襲われたのか、こくりと船を漕ぎ始めた。

 明日の緊張とレンへの安堵が、彼女の意識を微睡みへと誘っているのだ。


「おやすみなさいませ、シルヴィア様」

 レンは彼女を抱き上げ、ベッドへと運んだ。

 羽毛のように軽い体。

 この温もりを守るためなら世界中を敵に回しても構わない。悪魔に魂を売ってもいい。

 寝息を立て始めたシルヴィアの顔を、レンは長い間見つめていた。

 その寝顔は悪役令嬢などと呼ばれるにはあまりに無垢で、あどけなかった。


「⋯⋯さようなら、俺のお姫様」

 日本語で小さく呟くと、レンは部屋の灯りを落とした。

 闇の中で彼の手には一振りの剣が握られていた。

 明日は長い一日になる。


 そしてレン・アシュトンという男にとっての最後の一日になるだろう。

 窓の外では雪が激しさを増していた。

 すべてを白く塗りつぶすかのように、音もなく降り積もっていく。

 ただひとつ、彼の覚悟だけを残して。

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