第2話 ふたりだけの箱庭


 王立学園の裏庭にある古びた温室。

 そこはレンとシルヴィアだけが知る秘密の隠れ家――二人だけの『箱庭』だった。


 午後の日差しがガラス越しに柔らかく降り注ぐ中、レンは慣れた手つきで紅茶を淹れていた。

 茶葉は公爵家から取り寄せた最高級のダージリン。

 湯の温度、蒸らし時間、カップに注ぐ角度に至るまですべてが完璧に計算されている。

 それはレンの趣味ではなく目の前に座る主人が、少しでも心地よく過ごせるようにするための最適解だった。


「⋯⋯香りが弱いわ」


 豪奢なガーデンチェアに深く腰掛けたシルヴィアが、カップを口元に運んで不満げに呟く。

 一見すれば不機嫌そうだがレンには分かる。これは彼女なりの甘えであり、気を許している証拠だ。

 本当に気に入らなければ彼女は口をつけることすらせず、無言で――レンの前でだけ――カップを床に落とすような人間だからだ。


「申し訳ありません。湿度の関係で、茶葉の開きが遅かったようです。次は調整いたします」

「ふん。言い訳なんて聞きたくないわ。⋯⋯でも味は悪くない」


 シルヴィアはふいっと視線を逸らし、また一口、紅茶を含む。

 その横顔は、数年前の出会いの頃と比べて格段に大人びていた。

 十七歳となったシルヴィア・エルンストの美貌は、学園内でも群を抜いている。白磁の肌、艶めくプラチナブロンド、そして氷像のように整った目鼻立ち。


 しかし、その美しさが人を遠ざけていた。

 『氷の公爵令嬢』『高慢な悪女』。それが学園生徒たちが彼女につけたレッテルだ。


(⋯⋯何も知らないくせに)


 レンはポットを置きながら内心で毒づく。

 彼女が高慢なのではない。周囲が彼女に「完璧」以外を許さないだけだ。

 この数年間、レンは彼女の影として学園生活を共にしてきた。その中で見てきたのは、シルヴィアに向けられる理不尽な悪意の数々だ。


 教科書への落書き。

 靴の中に仕込まれた画鋲。

 わざと足を引っかけようとする令嬢たち。

 身に覚えのない悪い噂の流布。


 それらすべてを、レンはシルヴィアが気づく前に処理してきた。

 落書きされた教科書は新品とすり替え、画鋲は指先を血で汚しながら回収し、噂を流す主犯格の家には公爵家の名を使って無言の圧力をかけた。


 シルヴィアの視界に入る世界は、常に美しく整えられていなければならない。それが「道具」であるレンの矜持だった。


「レン。何をぼんやりしているの」

「失礼いたしました。お嬢様の髪があまりに美しく、見惚れておりました」

「⋯⋯っ、世辞はよして」


 シルヴィアの耳がわずかに赤くなる。

 彼女はコホンと咳払いをすると、憂鬱そうに溜息をついた。


「あの女⋯⋯また、殿下のお傍にいたわ」


 あの女。

 名前を出さずともレンには誰のことか分かった。

 男爵令嬢のリナ。この乙女ゲーム『聖女と剣のラプソディア』における正ヒロインだ。

 愛くるしい笑顔と、誰にでも分け隔てなく接する天真爛漫さ。そして稀有な『聖女』の力を持つ少女。

 彼女が学園に入学してから、世界の歯車は狂い始めた。


「殿下も殿下よ。婚約者である私を差し置いて、あんな身分の低い娘と⋯⋯。王族としての自覚が足りないのではなくて?」

「おっしゃる通りです」

「私が注意しても『リナは身分を気にせず接してくれる唯一の存在だ』だなんて、寝言のようなことを⋯⋯私はいつだって、王太子妃としての責務を果たそうとしているだけなのに」


 シルヴィアがカップを持つ手が震えている。

 怒りではない。不安なのだ。

 努力しても、努力しても、一番欲しいものが指の隙間から零れ落ちていく感覚。


 ――ゲームの『強制力』。

 レンはそれを肌で感じていた。どれだけシルヴィアが完璧に振る舞っても、周囲は彼女を「冷酷な悪女」と見なし、聖女リナを「被害者」として祭り上げていく。


 先日のダンスレッスンでもそうだった。リナが勝手に転んだだけなのに、周囲はシルヴィアが足を引っかけたのだと決めつけた。

 レンが目撃者として証言していなければ、その場で冤罪が成立していただろう。


「レン」

「はい」

「私は、間違っている?」


 シルヴィアが、縋るような瞳でレンを見上げる。

 その瞳は、雷に怯えていたあの夜と同じ色をしていた。


「あの子のようにへらへらと笑って、媚びを売ればいいの? 泥がついた野良猫みたいに、無作法に振る舞えば愛されるの? 私は⋯⋯エルンスト家の娘として、恥じぬように生きてきただけなのに」


 レンは静かに歩み寄り、片膝をついて彼女の視線に合わせる。

 そして、許されるギリギリの距離まで近づいた。


「お嬢様は、何一つ間違っておりません」


 レンの言葉に嘘はなかった。

 シルヴィアは誰よりも努力家で高潔だ。領民のことを考え国の未来を憂いている。ただ、その表現が不器用で、誤解されやすいだけだ。


「あなたは気高く、美しい。泥に塗れる必要などありません。汚れ仕事はすべて、このレンが引き受けます」

「⋯⋯お前は、私の味方?」

「味方ではありません」


 レンは首を横に振った。

 味方という対等な言葉は、自分にはおこがましい。


「私はあなたの道具です。あなたが右と言えば右を向き、死ねと言われれば即座に喉を突く。世界中があなたを敵に回しても、私だけはあなたの盾としてここに在ります」


 シルヴィアの瞳が揺れる。

 彼女はゆっくりと手を伸ばし、レンの頬に触れた。ひんやりとした指先――そこには確かな執着が宿っていた。


「⋯⋯ずるい男」


 彼女は小さく笑った。それは学園の誰も見たことのない、少女のような無防備な笑顔だった。


「そうやって、私を安心させて⋯⋯もし私を裏切ったら、許さないから」

「裏切りませんよ。道具は主人を裏切りません」

「口だけは達者ね。⋯⋯もう少し、そこにいなさい。私の気が済むまで」


 シルヴィアはレンの頬から手を離さず、親指でその唇をなぞる。

 無意識の誘惑。あるいは所有の確認。


 レンはその感触に心臓が早鐘を打つのを感じながらも、表情筋一つ動かさずに受け入れた。

 前世の記憶を持つ自分にとって彼女は守るべき対象であり、恋愛感情を抱くなど言語道断だ。

 そう自分に言い聞かせる。


 だが、この『箱庭』の中でだけは主従を超えた何かが育っていることを、二人とも薄々勘づいていた。そして、それが決して許されない結末に向かっていることも。



     * * *



 ある日の放課後。

 レンは廊下の影で信じがたい光景を目撃した。


 王太子シリルと聖女リナ。そして数人の側近候補たち。

 彼らが談笑しながら歩いてくる。それだけなら日常茶飯事だ。

 問題は彼らの会話の内容だった。


「⋯⋯まったく、シルヴィア嬢には困ったものだ」

「ええ。リナに対する嫌がらせ、目に余ります」

「教科書を隠したのも、恐らく彼女の差し金でしょう」

「そんな⋯⋯シルヴィア様がそんなことをするなんて」

「リナ、君は優しすぎるんだ。彼女のような『悪しき魔女』の血を引く者は、根本が腐っている」


 レンは息を潜め、拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込む。

 教科書を隠したのはシルヴィアではない。むしろ、シルヴィアの教科書を隠そうとした生徒をレンが締め上げ、未遂に終わらせたばかりだ。


 事実がどんどんと歪められている。

 いや、事実など彼らにとってはどうでもいいのだ。

「シルヴィアが悪者である」という前提が先にあり、すべての現象がそれに合わせて解釈されている。


(これが、シナリオの強制力なのか⋯⋯?)


 吐き気がするほどの理不尽。

 そしてレンは気づいてしまった。

 王太子の瞳が、どこか虚ろであることを。

 聖女リナの周囲に漂う甘ったるい桃色の魔力。魅了(チャーム)に近い何かが、攻略対象たちの判断力を鈍らせている。

 ゲームでは「愛の力」として美化されていたが、現実として目の当たりにすれば、それは洗脳と変わらないおぞましいものだった。


 このままではシルヴィアは必ず破滅する。

 卒業パーティーまで、あと三ヶ月。

 そこが『断罪イベント』の舞台だ。


 レンは影の中に身を沈めながら冷徹な計算を開始した。

 冤罪を晴らす証拠を集める? 無駄だ。彼らは聞く耳を持たない。

 王太子を説得する? 不可能だ。魅了は深く進行している。

 シルヴィアを改心させる? 彼女は何も悪くない。


(⋯⋯ならば)


 レンの脳裏に、一つの結論が浮かび上がる。

 最も確実で、最も愚かな方法。

 だが、それ以外に彼女の命と尊厳を守る術はない。

 その夜からレンは自室で計画を練り、着々と準備を進めだした。

 この計画が実行される必要がないことを祈りながら――。


 翌日、いつものように温室で紅茶を淹れるレンを見て、シルヴィアが首を傾げた。


「レン? 少し、顔色が悪いわよ」

「いえ、気のせいです」


 レンは完璧な営業スマイルを浮かべ、彼女の前にティーカップを置いた。


「お嬢様。卒業パーティーのドレスですが、赤になさいませんか」

「赤? エルンスト家の色は青よ。急にどうしたというの」

「ええ、燃えるような赤も、きっとお似合いになるかと。⋯⋯ほんの少し運命に抗ってみたいと思っただけです」


 意味深な言葉に、シルヴィアはいぶかしげな表情をする。

 けれどレンはそれ以上語らず、ただ静かに微笑んだだけだった。


 カウントダウンは始まっている。

 ふたりだけの穏やかな箱庭が壊される日は、もう目の前まで迫っていた。

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