悪役令嬢の盾として死んだ俺、美少女へ転生して彼女(氷の魔女)と結ばれる
抵抗する拳
第0章:エピローグ、或いはプロローグ
第1話 悪役令嬢の盾になると決めた日
雨の匂いがした。
石造りの回廊は冷え切っていて、窓の外では鉛色の空が泣いている。
豪奢な調度品が並ぶ公爵家の廊下を歩きながら、レンは自分の掌をじっと見つめた。
無骨で節くれだった手。剣を振るうために硬くなった皮膚。
前世の記憶にある、キーボードを叩くだけだった華奢な指とは似ても似つかない。
(⋯⋯転生して、もう二十年以上になるか)
レン・アシュトン。
それが今の彼の名前であり、全てだった。
前世は日本のしがないサラリーマン。過労気味の帰り道、心臓発作であっけなく逝った記憶がある。
そして目覚めた場所は、かつて妹がプレイしていた乙女ゲーム『聖女と剣のラプソディア』の世界だった。
といっても、レンに与えられた役割は華やかな攻略対象でもなければ、世界を救う勇者でもない。
この国の筆頭貴族、エルンスト公爵家に仕える、名もなき使用人の一人だ。
魔力は微々たるものだが剣の腕だけは多少立つ。だからこそ今日、この場所に呼ばれた。
「面を上げよ」
重厚な扉の内側、執務室で公爵の声が響く。
レンはゆっくりと顔を上げた。
そこにいたのは公爵だけではない。部屋の隅、窓際のソファに腰掛けた一人の少女がいた。
シルヴィア・エルンスト。
プラチナブロンドの髪は絹糸のように艶やかで、瞳は凍てつく湖のようなアイスブルー。
年齢はまだ十歳にも満たないはずだが、その整いすぎた容貌は陶器人形めいた冷たさを放っている。
彼女こそがこのゲームにおける『悪役令嬢』だ。
本来のシナリオでは、彼女は成長するにつれて傲慢になり、正ヒロインである聖女をいじめ抜き、最後には断罪されて破滅する。
だが目の前にいる少女からは傲慢さよりも、もっと別の――鋭利な刃物のような危うさを感じた。
「お前がレンか。武術大会での働きは耳に入っている。見事であった」
「恐悦至極に存じます、閣下」
「単刀直入に言おう。今日からお前をシルヴィアの専属護衛とする」
レンは一度だけ瞬きをして、すぐに頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
拒否権などない。それにこれはレンにとっても予想外の出来事⋯⋯いや、運命の悪戯だった。
悪役令嬢の護衛。それはつまり、破滅の運命に一番近い場所に立つということだ。
だがレンの心に恐怖はなかった。
前世の自分は何者にもなれずに死んだ。誰かを守ることも何かを成し遂げることもなく。
ならばこの二度目の生くらいは、誰かのために使い潰されるのも悪くない。自己評価の低いレンらしい、乾いた諦念だった。
「⋯⋯お父様」
鈴を転がすような、しかし感情の籠もらない声が響いた。
シルヴィアが首を傾げている。
「護衛など不要です。弱みを見せるようで不愉快だわ」
「シルヴィア。お前は次期王太子妃候補だ。命を狙う輩は多い。これは決定事項だ」
「⋯⋯私の魔法のほうが、そこの男の剣よりも優れているとしても?」
一瞬、室内の空気が冷たくなった気がした。
レンの首筋を冷たい何かが撫でる。
窓の外は雨なのに、シルヴィアの足元だけ——床が僅かに白く曇っている。
「口答えをするな!」
公爵の怒鳴り声にシルヴィアの肩がわずかに跳ねる、同時にその冷気は霧散した。
彼女は唇を噛み、ドレスの裾を握りしめて沈黙する。
その瞳の奥にあるのは反抗心ではない。諦めと孤独だ。
――ああ、そうか。
レンは唐突に理解した。
彼女は『悪役』として生まれたわけではない。こうして周囲の期待と重圧、そして愛情の欠落によって、徐々に心を凍らせていった結果があの姿なのだ。
「⋯⋯シルヴィア様」
公爵が退出を促すより先にレンは膝をついたまま口を開いていた。
本来なら許されない発言だが、衝動が理性を上回った。
「私は、ただの剣です」
シルヴィアが冷たい瞳をレンに向ける。ゴミを見るような目。だがレンは真っ直ぐに彼女を見つめ返した。
「意思を持たぬ道具に、優劣などございません。私はあなたの盾となり、剣となり、邪魔なものを排除するためだけに存在します。私が傍にいることが不愉快であれば、私の存在を無視していただいて構いません。ただの『動く壁』だと思っていただければ」
「⋯⋯道具、ですって?」
シルヴィアがソファから降り、カツカツとヒールの音を立ててレンに近づく。
彼女はレンの前に立ち、その小さな手でレンの頬を叩いた。
パチン、と乾いた音が室内に響く。
痛くはなかった。むしろ、彼女の手の方が痛むのではないかと思うほど、頼りない力だった。
「誇りのない男ね。自分を道具だなんて」
「誇りでは、お嬢様をお守りできませんので」
レンが淡々と答えると、シルヴィアは驚いたように目を見開いた。
そして、ふいっと顔を背ける。
「⋯⋯勝手になさい。ただし、私の視界には入らないように。目障りなのは嫌いよ」
「御意」
それが二人の始まりだった。
* * *
その日から、レンはシルヴィアの影となった。
朝、彼女が目覚める前から扉の外に立ち、夜、彼女が眠りにつくまで警護をする。
シルヴィアの日常は想像以上に過酷だった。
朝から晩まで詰め込まれた教師たちによる教育。
王妃教育という名の人格を削るようなマナー講座。
公爵である父親は成果しか求めず、母親は社交界に夢中で娘に関心がない。
使用人たちは彼女の冷徹さを恐れ、陰口を叩く。
彼女には、味方がいなかった。
たった一人も。
ある雨の夜のことだ。
雷鳴が轟く中、レンはシルヴィアの寝室の前に立っていた。
中から微かな物音が聞こえる。
規則違反を承知でレンは扉を数センチだけ開けた。
広すぎる天蓋付きのベッドの上で、シルヴィアが震えていた。
膝を抱え、耳を塞いでいる。
昼間の完璧な公爵令嬢の姿はどこにもない。雷に怯える、ただの子供がそこにいた。
(⋯⋯入るべきではない)
護衛としての分別が足を止める。だがレンの中にある「おせっかいな元日本人」の魂がそれを許さなかった。
レンは静かに部屋に入るとサイドテーブルのランプに明かりを灯した。
暖かなオレンジ色の光が闇を払う。
「⋯⋯っ!?」
シルヴィアが弾かれたように顔を上げた。涙で濡れた顔を見られた彼女は激昂する。
「誰が、入っていいと⋯⋯! 出て行って! 不敬よ!」
「申し訳ありません。雷鳴で扉が勝手に開いてしまったもので」
「嘘をおっしゃい!」
「はい、嘘です」
レンがあっさりと認めると、シルヴィアは毒気を抜かれたように口を開けたまま固まった。
レンはベッドの脇に跪き、視線の高さを彼女に合わせる。
そして懐からハンカチを取り出した。
「お使いください。道具相手なら涙を見せても恥にはなりません」
「⋯⋯あんたなんか、大嫌いよ」
「承知しております」
シルヴィアはハンカチをひったくると、乱暴に顔を拭った。
レンは何も言わずに、ただそこに居続けた。
雷が鳴るたびに彼女の肩が震える。
そのたびにレンは少しだけ身を乗り出し、彼女と窓の間を遮るように位置を変えた。
自分が盾になることで、雷光すらも防げると言うように。
やがて雨音が弱まってきた頃。
シルヴィアがぽつりと呟いた。
「⋯⋯どうして」
「はい」
「どうして、私なんかに構うの。みんな、私が可愛げのない子供だと陰口を言っているわ。お父様だって、私が男に生まれなかったことを嘆いている」
「私は他の誰でもない、レンですので」
レンは困ったように笑った。
それは計算高い従者の顔ではなく、前世の記憶を持つ一人の青年としての表情だった。
「それに私はお嬢様の強さを知っています。誰にも頼らず一人で立とうとする気高さを。⋯⋯ですが、たまには道具にもたれかかるのも悪くありませんよ。私は頑丈で壊れませんから」
シルヴィアはアイスブルーの瞳で、じっとレンを見つめた。
探るような、縋るような、迷子の瞳。
やがて彼女はおずおずと手を伸ばし、レンの袖口を掴んだ。
ぎゅっと、指先が白くなるほど強く。
「⋯⋯朝まで」
「はい」
「朝まで、そこにいなさい。これは命令よ」
「御意。⋯⋯おやすみなさいませ、シルヴィア様」
レンは彼女が眠りに落ちるまで、その場を動かなかった。
トン、トン、トン。
リズムを取りながら優しく彼女の背中を叩く。自分はここにいると伝えるように。
握りしめられた袖口から伝わる体温だけが、この冷たい屋敷の中で唯一の確かなもののように感じられた。
この時、レンは決めたのだ。
乙女ゲームのシナリオがどうであれ、断罪の未来が待っていようと関係ない。
この不器用で孤独な少女が、理不尽な悪意に晒されることのないよう、自分が全てを防いでみせると。
たとえその代償が、自分の命であったとしても構わないと。
それが後に「氷の魔女」と恐れられることになる少女と彼女の唯一の理解者となる従者の密やかな契約だった。
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