変貌回帰
鬼は人間とは根本的に身体機能が違う。
化け物じみた怪力は生まれつきのものであるし、母の胎内にいる時から怪力を持っていたために、母に腹を掻っ捌いて子供が出てくるケースもある。
そのうえ、鬼は外見はほとんど変化しない。
年老いる事で腰が曲がったり、老けたりすることがないのだ。
鬼の体細胞は、二十歳でほぼ形を決定する。
つまるところ、鬼が二十歳になった瞬間の外見が、その鬼の一生の外見となるのだ。
さて、唐突にこんな話題を持ってきたのにも、もちろん訳がある。
今日で丁度10年目。
なんの数字かといえば、彼女があの夜、死にたくないと涙してから経った時間だ。
彼女の風貌も随分と変わった。
純白の如く美しかった髪は、チリやら灰やら、検討すらつかない汚れが支配している。
額のちょうど中央にあった一本角も、10年前と比べて大きく、黒く成長した。
彼女を包むゴブリンの毛布は、端の方が擦り切れ、穴だらけになってしまっている。元々白い色を失っていた毛布は、この10年という時を経て、ネズミ色を通り越して黒に近くなっている。
彼女の手と、口から下は、赤黒い液体で彩られている。
その液体とは、血液だ。まだ、手からポタポタと地面に血が滴っている。
この10年、彼女は下水道に籠り、ネズミの生き血を啜り、ネズミの肉に齧り付いて生きてきた。
人間の世界に、彼女の居場所はもちろんなかったため、彼女の居場所はこういった忘れられた様な汚れた場所しかなかった。
ネズミを食べていると言ったが、これでも、里にいた時の食生活に比べれば随分と改善された。
里にいた頃は、藻と苔を齧って空腹を凌いでいたのだ、肉を喰い、液体を啜れる様になっただけ随分と改善された。
それでも、下水道にいるネズミにも限りがある。
血を無くなってしまうほどネズミを啜った後には、下水道の汚れ切った水を無理矢理嚥下し、極限の空腹時には下水道に蔓延っていた蜘蛛や芋虫、蛾などを食したことなど両手両足でも数え切れない。
「……ぁぁあ」
彼女が久方ぶりに声を発した。
直後に、ぐぐぅ、と腹がなって、彼女に空腹を訴えた。
彼女の顔も、それはそれは酷い有様であった。
元は綺麗で整った容姿をしていたが、今ではそれは過去の遺物であり、幻想の様に儚いものだった。
悍ましい顔だった。元は、眩い赤を放っていた美しい瞳は、ギラギラとした濁った怪しい光を放っていて、目玉がこぼれ落ちそうなほどに見開かれている。鼻からはただ荒い息遣いが漏れ、口からは血と共に涎がボタボタとこぼれ落ちる。
先程発した声も、おそらく鳴き声に過ぎないだろう。
彼女はこの10年で言葉を忘れた。
ただただ、生きる事を思考するために、余計なものを削ぎ落とし続けた結果、彼女はコミュニケーション能力を喪失してしまったのだ。
彼女はゆっくり立ち上がった瞬間、濡れた地面に足を滑らせ、あの夜の様に頭から下水に落下した。
……おかしい。彼女が浮き上がってこない。
人の体は、基本的に水に落ちたら浮き上がる様にできている。
なぜ彼女の体は浮いてこないのか。
その時彼女は、水中に吸い込まれていた。
彼女の座っていたところのすぐ側には、下水を外に排出する穴があり、彼女の体はうっかりそこに入り込んでしまったのだ。
戻ろうともがいてももう遅い。流れは、完全に彼女の体を捉えて、抵抗すらさせずに彼女を流した。
「がっ、ごごがぼぼぼ…!」
彼女の口から弱々しく空気が漏れる。
彼女は咄嗟に両手で口と鼻を塞いで、空気が漏れるのを防いだ。
まずい。死ぬ。死んでしまう。
彼女がそう思った瞬間、何かが彼女の脳内をよぎった。
目の前に、藻と苔が入った皿が映る。かと思えば、その皿は次の瞬間、砂利の地面を写した。次にあの夜のカップルを写した。
これは、走馬灯だ。
彼女の体は、今確かにゆっくりと死に向かっている。
彼女は既にかっ開かれていた目を更に大きく見開いた。
いやだ。しんでたまるか。
彼女は、口と鼻を塞いでいた両手をあっちこっちへ振り回して、もがいた。
もがいてもがいてもがいて。足掻いて足掻いて。
その末に彼女を照らしたのは、明るすぎる光だった。
川に面している土管がいきなり水の勢いを止めたかと思うと、突然大きな物体を吐き出した。
彼女だ。
彼女は、岸を必死に掴むと、弱りきった腕力でなんとか体を持ち上げた。
「げっ、かっ、ひゅっひゅ…はあっ、は、」
彼女は岸の上の芝生に仰向けに寝転がって、必死に空気を吸い込んだ。
その瞬間、青い空を彼女の目が見つけて、彼女は目を押さえて転げ回った。
「がぁっ、ぐっ、うぅあっ!」
長年暗闇で過ごし続けた彼女の目には、陽光は明る過ぎた。
彼女は目を押さえながら立ち上がり、見開かれた目で周囲をぎょろりと一望した。
幸い人はいなかった。
彼女は、すぐ側には橋を見つけ、その橋の下に身を隠して縮こまった。
「……ぉも……ィいだシた……」
小さく彼女が声を発した。
声らしい声だった。先程まで言葉を忘れていたとは思えない
臨死体験をして、走馬灯を見て、彼女は記憶を思い出した様だ。
髪から水がぴちゃぴちゃと滴る。
彼女は自分の手を見た。
あの赤黒い色は、既に彼女の皮膚に馴染み、染み付いてしまっていた為、血が落ちてはいなかった。
あの時から、手の大きさはあまり変わっていない。そりゃあ、あの偏りまくった栄養を摂り、劣悪な環境で生活していたのだから当然だろう。
「…これぁら……ど…しヨ……」
掠れた声だ。あの夜の様な。掠れたか細すぎる声。
10年経って、彼女はやはり、ここに帰ってきた。
死にたくない。
彼女はそれだけを考えていた。
愛してほしい。それだけなのに ヘビーなしっぽ @HEBISIPO
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