霧の谷へ――影の囁き』

エルド村を出て三日。

 レオン、ミナ、ルミエの三人は北へ向かい、霧の谷へ続く街道を歩いていた。


 朝日が昇り始めたばかりの森は、薄い霧に包まれている。

 鳥の声が遠くで響き、風が木々を揺らすたび、葉のざわめきが静かに広がった。


「ねぇレオン、霧の谷ってどんなところなの?」

 ミナが隣で歩きながら尋ねる。


「僕も詳しくは知らないけど……昔から“迷いの谷”って呼ばれてるらしい。

 霧が濃すぎて、方向感覚が狂うんだって」


「えぇ……怖いところじゃん……」


 ミナは肩をすくめたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「でも、レオンとルミエさんがいるなら大丈夫だよね!」


 その言葉にレオンは少し照れたように笑い、ルミエは穏やかに微笑んだ。


「霧の谷は確かに危険だけれど、あなたたちなら乗り越えられるわ。

 それに……第二の鍵片の気配が確かにある」


 ルミエの言葉に、レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 蒼鍵が、微かに脈打っている。


(また……影と戦うことになるのか)


 不安はある。

 だが、ミナとルミエが隣にいるだけで、心が少し軽くなる。


---


 昼過ぎ、三人は街道沿いの小さな休憩所に立ち寄った。

 木製のベンチと古い井戸があるだけの簡素な場所だが、旅人がよく使うらしい。


「ふぅ……歩きっぱなしで疲れたぁ……」

 ミナはベンチに座り、足をぶらぶらさせた。


「ミナ、無理しないで。

 まだ先は長いんだから」

 レオンが水筒を差し出す。


「ありがとう、レオン。優しいね」


 ミナは嬉しそうに水を飲んだ。

 その横顔を見て、レオンは少し胸がざわついた。


(……なんだろう、この感じ)


 そんなレオンの様子を、ルミエは静かに見つめていた。

 風に揺れる銀髪が、どこか寂しげに見える。


「レオン」

「ん?」


「あなたは……ミナのことをどう思っているの?」


「えっ……?」


 突然の質問に、レオンは言葉を失った。

 ミナは水を飲んでいて気づいていない。


「どうって……仲間だよ。大切な……」


「それだけ?」


 ルミエの瞳は、どこか探るようだった。

 レオンは視線を逸らし、曖昧に笑った。


「まだ……よく分からないよ。

 旅が始まったばかりだし」


「そう……」


 ルミエは微笑んだが、その表情はどこか影を落としていた。


(私は……何を期待しているのかしら)


 自分でも分からない感情が胸に渦巻く。

 守護者として生きてきたルミエにとって、

 “嫉妬”という感情は初めてのものだった。


---


 休憩を終え、三人は再び歩き始めた。

 夕方になる頃、霧が濃くなり始める。


「なんか……急に霧が濃くなってきたね」

 ミナが不安そうに言う。


「ここから先が霧の谷の入り口よ」

 ルミエが前に出る。


 霧は足元から立ち上り、視界を白く染めていく。

 木々の輪郭がぼやけ、風の音すら遠く感じる。


「レオン、ミナ。

 絶対に私から離れないで」


 二人は頷き、ルミエの後ろに続いた。


 霧の中は異様な静けさだった。

 足音だけが響き、まるで世界から切り離されたような感覚に襲われる。


「なんか……嫌な感じがする」

 ミナがレオンの袖を掴む。


「大丈夫。僕がいるから」


 レオンはミナの手を握り返した。

 その瞬間、ミナの頬が赤く染まる。


 ルミエはその様子を見て、胸が少し痛んだ。


(私は……どうしてこんな気持ちになるの?)


 自分でも分からない。

 ただ、レオンがミナに向ける優しい眼差しを見るたび、

 胸の奥がざわつくのだ。


---


 その時――


「……聞こえる?」


 ルミエが立ち止まった。


「え? 何が?」

 レオンが耳を澄ます。


 霧の奥から、かすかな囁き声が聞こえた。


『……こっちへ……』


『……来い……』


『……鍵を……』


「な、なにこれ……!」

 ミナが震える。


「影の囁きよ。

 霧の谷には、迷い込んだ者の心を惑わせる影が潜んでいる」


 ルミエが光の結界を張ると、囁き声は少し弱まった。


「レオン、ミナ。

 絶対に声に耳を貸してはだめ。

 影は心の隙を狙ってくる」


 二人は緊張した面持ちで頷いた。


 しかし――

 囁き声は次第に強くなり、形を持ち始める。


『レオン……』


「っ……!」


 レオンの足が止まった。

 囁き声が、はっきりと自分の名前を呼んだのだ。


『お前は……弱い……』


『守れない……』


『また……失う……』


「やめろ……!」


 レオンは頭を押さえ、膝をついた。


「レオン!」

 ミナが駆け寄る。


「触っちゃだめ!」

 ルミエが叫ぶ。


 だが遅かった。

 ミナがレオンの肩に触れた瞬間、

 霧が渦を巻き、二人を包み込んだ。


「ミナ! レオン!」

 ルミエが手を伸ばすが、霧が壁のように立ちはだかる。


『……奪う……』


『……影へ……』


 霧の中から、黒い腕が伸びてきた。

 ミナの腕を掴み、引きずり込もうとする。


「いやっ……レオン……!」


「ミナ!!」


 レオンは必死にミナの手を掴んだ。

 だが影の力は強く、二人の手は少しずつ離れていく。


「離すもんか……絶対に……!」


 レオンの胸が熱くなり、蒼鍵が輝き始めた。


「レオン……!」


 ミナの瞳に涙が浮かぶ。


 その瞬間――

 霧の奥から、巨大な影が姿を現した。


 人の形をしているが、顔はなく、全身が黒い霧でできている。

 昨日の影の眷属とは比べものにならないほどの存在感。


「……影王の使い……!」


 ルミエが蒼白になる。


「レオン、ミナから離れて!」


「できない!!」


 レオンは叫び、蒼鍵の光を全身にまとった。


「ミナは……絶対に守る!!」


 蒼い光が爆発し、霧を吹き飛ばす。

 影の腕が弾かれ、ミナはレオンの胸に倒れ込んだ。


「レオン……ありがとう……」


 ミナは震えながらも、しっかりとレオンの服を掴んでいた。


 影の巨体が唸り声を上げる。


「レオン、ミナ!

 戦うわよ!」


 ルミエが前に出る。

 その瞳には、強い決意が宿っていた。


 三人はついに――

 霧の谷の“本当の敵”と対峙することにな

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