第2話 進め、少年!(大嘘)

 そのあと、アロとアヴィはすぐに行動に移った。ふたりはそれぞれ自分の寝室に戻り、着替えと荷物の準備を始める。

 午前2時42分になるころには、すでに服装を整え終わり、アヴィの部屋に合流していた。

 持ち物の量は、決して少なくなかった。

 着替えの服を何セットか、モバイルバッテリー、ノートパソコン、スマホと充電器、パスポート、財布、各種身分証。

 それから薬類や小型の救急キット、携帯用の小さなナイフと懐中電灯といったこまごまとした道具も一通りそろえている。

 食べ物と飲み物に関しては、さらに容赦がなかった。冷蔵庫の中身は、持ち出せるものを片っ端からかき集める。野菜、果物、卵、冷凍肉、あと天然水とか飲み物とか。

 キッチンのほうからも、米、インスタント麺、缶詰、調味料類、それから鍋や皿といった調理器具まで、「必要なものリスト」に丸ごと放り込んでいった。

 とにかく思いつくものは全部持っていく勢いで、まるでこのまま避難生活に突入するつもりかというレベルだった。

 とはいえ、ここで「じゃあ今のふたりは、大型スーツケースを一個ずつ引きずって、その上で誰かはバカでかい登山用リュックまで背負っているのか」と想像すると、それはそれで違う。

 そういう絵面はたしかに「逃亡中」っぽさ満点だが、現状のふたりからはだいぶ離れている。

 実際のところ、アロたちはスーツケースを一つも持っていないし、背中にリュックも背負っていない。

 彼らの荷物は全部、静かに【システムバッグ】の中で待機しているだけだ。

 新人特典として、システムは容量1立方メートルの【システムバッグ】を無料で配布してくれている。しかも、一人につき一つずつだ。

 「1立方メートル」と言われるとあまり大きく感じないかもしれないが、ざっくり言えば1000リットル。ふたり分を合わせれば2000リットルの収納スペースになる。

 市販されている「フル装備登山用」とかいう大型ザックで、寝袋とテントまで一緒に詰め込めるタイプでも、せいぜい70〜80リットル程度だ。

 つまり今のふたりは、それぞれ二十数個分の登山リュックを持ち歩いているのと同じ計算になるのに、実際には肩に何ひとつ背負っていない。便利すぎるにもほどがある。

 それから、もう一つだけ勘違いしてほしくないのは、「このふたりが、手作業で部屋中をひっくり返して荷造りした」と思われることだ。

 たかが数分でここまでふたり分の荷物をまとめるなんて、人力だけでは絶対に無理だ。

 本当に頼りになったのは、MPだった。

 やり方は、驚くほど簡単だ。

 まず【超越レーダー】を展開して、部屋全体を一気にスキャンさせる。すると、使えそうな物の輪郭や位置がひと通りマッピングされる。

 あとは、持っていきたい物を頭の中で選ぶだけでいい。意識の中でチェックを入れた瞬間、その物体は現実空間から自動的に「引き抜かれ」、そのまま【システムバッグ】の中に収納される。

 そんなチートじみた収納効率のおかげで、ふたりはほんの数分のあいだに、「今後使えそうな物」をほとんど全部持ち出すことができたのだった。

 では、なぜアヴィの寝室に集合したのか。理由はとても単純だ。

 さっきアロが【シスちゃん】に指示してこじ開けさせようとしていた「亜空間の壁」の入口は、アヴィの部屋の中に設定されているからである。

 午前2時40分の時点で、シスちゃんはこの場所でどうにか「亜空間の壁」の初期解析を完了していた。

 あとはアロが合図を出して、十分なMPを流し込めば、実際に通路を開けるところまで準備は整っていた。

 もちろん、「シスちゃん、すごい優秀。やれば一発で何でも成功!」みたいな、都合のいい存在ではない。

 【シスちゃん】は万能のチート道具ではなく、アロがまったく知らない問題に答えることもできないし、アロ自身には絶対に不可能な作業を、いきなり全部肩代わりしてくれるわけでもない。

 シスちゃんが提供できるサポートの上限は、あくまで「アロ本人が持っている能力と理論的な理解」によって決まっている。

 言い換えると、アロがまだ習得していないスキルを、シスちゃんが勝手に生み出すことはできないし、理論上アロの頭では理解も導き出しもできない内容を、シスちゃんが勝手にひねり出してくることもない。

 シスちゃんが呼び出しているのは、基本的にアロがすでに持っている能力と知識のストックであり、それをシステム側で代わりに処理・統合して、より効率的で分かりやすい形にして返してくれているだけなのだ。

 つまり、シスちゃんの力の本質は「アロを超えた何か」ではなく、「アロという土台の上に乗っかった拡張ツール」にすぎない。

 では、なぜそんな都合のいい機能がわざわざ用意されているのか。

 理由はこれまた分かりやすい。アロとアヴィ、この兄妹ふたりは、昔から勉強が全然ダメだからだ。

 特に数学なんて、子どものころからテストでまともな点を取れたためしがない。

 そのうえふたりとも根っからのめんどくさがりで、ややこしいことを考えるのが大の苦手、できることなら一生頭なんて使わずに生きていきたいタイプだ。

 そんなユーザーのことを見て、システムは「それならもう、一人に一体ずつ小さい手伝い役をつけてしまおう」と決めた。

 それがシスちゃんである。

 本来なら時間をかけて頭を悩ませながら自分たちでやらなきゃいけない細かい作業を、シスちゃんが代わりにどんどん処理してくれる。そのおかげで、この兄妹はこれからもあまり頭を使わなくても、とりあえず人並みくらいの生活は続けていける、というわけだ。

 午前2時33分から2時40分までの、たった七分のあいだに、シスちゃんは入口の解析を五回も試していた。最初の四回は、いろいろな理由で全部失敗している。

 一回目は座標の指定がかなりずれていて、システム側から「この地点は通路の開放には不向き」と判断されてしまった。

 二回目は、重要なポイントに流し込むべきMPが予定どおりのタイミングで入らず、構造が不安定になって途中で中断。

 三回目は、突発的な「亜空間エネルギー」の乱れに巻き込まれて失敗。

 四回目はもっとひどくて、小数点以下七桁まで合わせないといけない重要なパラメータのうち、一桁だけ数字を打ち間違え、そのせいで全体の構成がその場で崩れ落ちた。

 そして五回目になって、ようやく「運がそこそこ良かったこと」と「直感がうまく働いたこと」が重なり、なんとか成功にこぎつけた。

 このことから少なくとも一つだけはっきりしたことがある。「亜空間の壁」は、見た目ほど生やさしい相手ではないということだ。ただ力があるだけでは足りず、ところどころで運と直感にも助けてもらわないと突破できない。

 合流を済ませたあと、アロはすぐにシスちゃんに命令を出した。「亜空間の壁」を本格的に開け、と。指示を受け取った瞬間、シスちゃんはアロのMPを一気に呼び出し、入口の場所へと流し込み始める。

 そのときのMPの減り方は、「エグい」のひと言に尽きた。ほんの数秒のあいだに、アロのMPは70%から一気に15%までストンと落ち込む。

 このままあと一、二秒でも続けていれば、MPはきれいさっぱり空っぽになっていたはずだ。

 もちろん、MPがゼロになったところで、シスちゃんが自動的に手を止めてくれるわけではない。

 アロは、必要ならHPをMPの代わりに支払い、自分の生命力を削ってでも亜空間への道をこじ開けることができる。

 ただ、今回はそこまでひどい状況にはならなかった。MP残量が15%前後までギリギリ削られたところで、「扉」はどうにか開いたのだ。

 その「扉」が開く様子は、「ぱっ」と一瞬で現れるような単純なものではない。

 まず最初に、入口となる場所の空間に、ガラスに入るヒビのような細い筋が一本走る。続いて二本目、三本目とヒビが増えていき、やがて入口一帯は細かい亀裂だらけになる。まるで、その一帯の空間そのものが、内側から押し広げられて割れかけているようだった。

 次の瞬間、亀裂と亀裂のあいだにある「空間のかけら」が、ひとつずつ下へと崩れ落ちていく。その欠片は落ちながら、少しずつ白い光の粒へと変わっていき、床に届く前に完全に消えてしまう。

 すべての欠片が落ち切って消えたあと、そこに残ったのは、真っ黒な楕円形の入口だけだった。この時点で通路自体は開いているが、まだ「未起動」の状態で、生き物が通り抜けることはできない。

 最後に必要なのは、「起動」の工程だった。シスちゃんはアロのMPをさらに30%ほどまとめて注ぎ込み、その黒い入口を「起動」させる。すると、真っ暗だった奥のほうに、かすかだが安定した光がじわじわと灯り始めた。

 それに合わせて、亜空間へ通じる通路もようやく落ち着き、生きた存在が通っても大丈夫な状態にまで安定する。

 とはいえ、「扉が開いたから、誰でも通れる」というわけではない。アロとアヴィがこの扉を使えるのは、ふたりが【超越者】で、その中でもかなり強いからだ。だからこそ、MP30%ぶんとシステムの防護があれば、最低限の安全を確保して亜空間を通り抜けられる。

 もしこれがただの一般人だった場合、話はまったく変わってくる。たとえアロがMPを500%ぶん支払うつもりでいても、その人間を「安全に亜空間へ入れる」ことはできない。

 なぜそんな差が出るのか。

 一つは、超越者の身体と魂が、もともと普通の人間よりはるかに強くできているからだ。通過中に必要な保護の量が少なくて済み、亜空間という特殊な環境の中でも安定しやすい。

 もう一つは、「生命としてのレベル」そのものが違うからだ。もっと分かりやすく言えば、亜空間から見たとき、超越者は「受け入れてもいい来訪者」だが、普通の人間は「規格外の異物」に近い。

 そんな異物を無理やり押し込めば、結果は二つに一つである。その場で環境に引き裂かれるか、亜空間エネルギーに汚染されて怪物に変わるか。どちらにせよ、何事もなく無事に生き残る、という展開だけは絶対にありえないのだ。

 【亜空間の扉】が開いたからといって、「じゃあ行くか」とそのまま堂々と歩き込めるかというと、さすがに話はそんなに簡単ではない。

 シスちゃんが、アロの視界の中にでかでかと警告ウィンドウをポンと表示してきた。内容はひと言で言えばこうだ。

 「亜空間に入る前に、まず【エナジーシールド】で全身を包むことをおすすめします」

 なぜそんなことをわざわざ忠告してくるのか。理由はとても単純だ。 扉の向こうは、地球みたいに人間に優しい環境ではなく、いわゆる「宇宙の真空地帯」だからである。

 空気はないし、大気圧もない。温度だってめちゃくちゃで、環境によっては平気で百何十度まで上がることもあれば、逆にマイナス百何十度まで一気に下がることもある。

 普通の人間にとって、そんな場所はほぼ「一歩出たら即死」の世界だ。扉をくぐった瞬間に呼吸できる空気を失い、血液は沸騰するか凍りつき、真空と極端な温度差に身体をあっという間に壊される。もがく時間すらない。

 もちろん、エナジーシールドを張らなかったからといって、アロとアヴィがその場で即アウト、というわけでもない。

 ふたりは【超越者】であり、一定以上は酸素に頼らなくても平気な身体になっている。彼らにとっての「空気」や「生命維持装置」は、MPそのものだ。MPさえ残っていれば、超越能力で身体の機能をしばらく保ち、いきなり崩壊するのだけは防げる。

 それに、かりに一、二百度くらいの高温なら、今のふたりの身体にはそこまで致命的ではない。今の体質なら、三百度近い高温を一時的に生身で耐えることも理屈の上では可能だ。

 本当に厄介なのは、マイナス百何十度といった極端な低温のほうである。そういう環境では、普段のようにスムーズにMPを動かすこと自体が難しくなる。

 理論上は、MPをずっと流し続けて、身体のまわりに「MPバリア」を張ることもできる。そうすれば、周囲の極低温やある程度の環境ダメージをなんとか押しとどめ、自分たちの身体だけをほぼ常温に近い状態で保つことはできる。放射線やエネルギーの流れ、細かい破片の衝突などについても、MPバリアで一定時間なら耐えられないわけではない。

 ただし、その方法には問題が多い。まず、MPの消費が激しい。さらに、バリアを維持するためにはかなり細かい制御が必要で、超越演算の負担も大きい。少しでも集中を切らして制御が甘くなれば、その瞬間に防御力がガクッと落ちる可能性がある。

 それに比べると、【エナジーシールド】は最初からこういう環境で使うために用意された、いわば「専用の防護服」だ。

 構造が安定していて、あちこちの耐性もバランスよく備わっている。必要なMPも少なめで、消費ペースも読みやすい。

 シールドを展開しておけば、MPを供給し続けるかぎり、呼吸できる空気を自動で生み出し、体温をちょうどいい範囲に保ち、周囲の圧力も地球の地表に近いレベルで維持してくれる。

 さらに、シールドは足もとの重力もある程度いじることができる。そのおかげで、ふたりの足にかかる重力を地球と近い感覚に整え、いきなりふわっと浮かび上がったりしないようにしてくれる。

 おまけに、もう少しMPをつぎ込めば、シールド側から推進力をかけることも可能だ。その気になれば、真空の中でも自分の行きたい方向へすべるように移動したり、簡単な飛行をしたりすることさえできる。

 だからこそ、シスちゃんはふたりにこう勧めてきたわけだ。

 「まず自分たちの身体にシールドを一枚かぶせてから入ってください」と。

 これは、「シールドを張らなかったら即死しますよ」という意味ではない。ただ、もう少しまともな言い方をするなら――せっかく宇宙服が用意してあるのに、わざわざ真空に全裸で飛び出していく必要はないよね、という話だ。

 では、このふたりはそもそも【エナジーシールド】を使えるのか。答えはノーだ。アロは使えない。使えるのはアヴィだけである。さっきも出てきたとおり、彼女はすでに【超越エネルギー学Lv1】を購入している。

 もちろん、このスキルはあくまで基礎の入り口で、たくさんの上位スキルを解放するための前提条件にすぎない。だから、アロもいずれ同じスキルブックを買わざるをえない。

 問題は、今のアロの手持ちがちょうど200システムコインしかないことで、その【超越エネルギー学Lv1】の値段も、きっちり200だということだ。

 ここで買ってしまうと、ただの貧乏人どころか、その瞬間から本当にスッカラカンの一文無しになってしまう。心の中の「これだけは残しておきたい」という余裕も、きれいになくなる。

 何よりもまずいのは、「うっかり一回死んだとき」のことだ。復活にはシステムコインが必要で、お金が足りなければシステムから借金をすることもできる。

 だが、その利子が笑えない。100借りたら300にして返せ、という、とんでもないレートなのだ。数字だけ見ても頭おかしい利息で、アロとしては、そんな条件で金を借りるくらいなら死んだほうがマシだと本気で思っていた。

 結局のところ、【エナジーシールド】を展開したのはアヴィのほうで、まず自分に一枚シールドを張り、そのあとアロにも同じようにシールドをかけてやる、という形になった。こうして、ふたりとも真空の中を「全裸で走り回る」ハメになるような最悪の展開だけは回避できた

 ただ、「エナジーシールド」と聞いて、全身を大きな半透明の光の玉で包まれて、動くたびにゴロゴロ転がりそうな姿を想像してしまうのなら、それはだいぶイメージが違う。

 現実のこのシールドは、そんな球体ではない。どちらかといえば、二枚目の肌に近い。髪、服、肌、靴の裏にいたるまで、外側の表面をぴったりと覆う薄い膜のようなもので、その厚さは一ミリにも満たない。

 厚さそのものは重要ではない。本当に大事なのは、その柔らかさだ。このシールドをまとったままバレエを踊ろうが、新体操をしようが、動きが制限されることはない。重くなることもなく、締め付けられているような不快感もない。

 だからと言って、「薄くて柔らかい=弱い」というわけでもない。防御力だけ見れば、散弾銃の一斉射や手榴弾の爆風くらいなら正面から受け止めても破れない程度の強度はある。

 普通レベルの電磁波や高エネルギー粒子の流れ、宇宙線といったものも、まとめてシールドの外側で弾いてくれる。そのうえ、いわゆる超越エネルギーによる汚染や、亜空間由来のエネルギー侵食に対しても、特別な防御効果を持っている。

 そんな「高性能の宇宙服」を着込んだことで、アロとしては、もういつでも亜空間に飛び込む気満々だった。ところが、いざ一歩を踏み出そうとしたところで、アヴィがずっと胸の中に引っかかっていた疑問を口にする。

「ていうかさ、よく考えたら、あたしたち今エナジーシールドあるじゃん?しかも不可視モード付きでしょ。だったら、わざわざ亜空間に逃げる必要ある?シールドかけて透明になって、警察の目の前をうろついたって、どうせ向こうからは見えないんじゃないの?」

 それに対して、アロの答えはかなりあっさりしていた。

「亜空間に逃げるのは、あくまでついで。メインは亜空間航路のほうだ」

 「亜空間航路」という言葉を聞いた瞬間、そこそこSF小説を読んできたアヴィの頭の中では、反射的に「亜空間航路=光より速く移動するための道」というイメージが浮かんだ。

 だから、思わずもう一度、確認するように聞き返してしまう。

「その……光より速く移動できるやつってこと?」

 アロは首を横に振りながら、さっき叩き込まれた【超越空間学Lv1】の知識を頭の中でめくりつつ、考えた内容をそのまま口にした。

「全部がそうってわけじゃない。中には、本当に光より速く移動するためのメインルートになってる亜空間航路もあるけど、そうじゃないのもかなり多い。光より速いどころか、光速の0.1%にも届かないような、いわば普通のルートも混ざってる。今の俺たちが探したいのは、その普通のほうだ」

 そこまで聞いたアヴィは、当然の流れでさらに問いを重ねる。

「そういう“ふつうの航路”探して、何するつもり?」

 アロの答えは、一言だった。

「家に帰る」

 ここで言う「家」は、東京・池袋のこの安っぽい賃貸アパートのことではない。アロとアヴィにとって本当の故郷であり、今も母親が暮らしている場所のことだ。

 そこは日本ではなく、中国の内陸部にある。東京とのあいだには海が一面広がっていて、直線距離でも2,500km以上は離れている。

 これまでは、帰省の方法はごく普通だった。まずパスポートでネット予約して航空券を取り、空港に行って飛行機に乗り、上海で乗り継ぎをして、故郷にいちばん近い大都市まで飛ぶ。最後はタクシーに乗って家まで帰る。全部まとめるとかなりの長旅だが、「一般人が使う交通手段」としては、ごくまっとうなルートだった。

 だが、それはあくまで「以前」の話だ。今みたいな状況で、のんきに航空券を予約して、パスポート見せて、手荷物検査を受けて、ゲートから搭乗する――なんて動きをしたらどうなるか。

 それはもう「里帰り」ではなく、「どうぞご自由に身元を確認してください」と警察に協力しに行くようなものだ。だからこそ、彼は自分で帰り道を用意するしかなかった。

 正直なところ、帰る方法なんていくらでもある。別に亜空間を通らなきゃいけない決まりなんてどこにもない。たとえば、不可視モードのシールドをまとったまま、中国行きの旅客機にこっそり紛れ込むとか。貨物室に座り込んでもいいし、エコノミーのすみっこにちょこんと座っていてもいい。ふたり分くらいなら、どうにかスペースは見つかるだろう。

 飛行機に乗りたくないなら、こっそり貨物船に忍び込んで、コンテナの横で寝ながらゆっくり海を渡る、なんてプランもある。

 もっと極端な案を出すなら、今のふたりの体なら、足と筋肉だけで全部走破することだって理屈の上ではありえる。東京から九州までひたすら走り抜けて、そのまま海に飛び込んで泳ぎ、中国沿岸のどこかの街にたどり着いたあと、そこからまた歩いて故郷まで戻る、みたいなルートだ。

 こうして並べてみれば分かるとおり、どの案も理屈だけなら「できなくはない」。だからアヴィとしては、わざわざ亜空間なんて大げさな手段を使わなくてもいいんじゃないか、とひとつひとつ口に出して提案してみたわけだ。

 だが、アロはどれも気に入らなかった。その理由はこうだ。そんな形で、誰かに余計な迷惑をかけるのが嫌だったからである。ここで言う「迷惑をかけたくない相手」とは誰か。もちろん旅客機や貨物船で働いている人たちのことだ。

 アロが気にしている「迷惑」とは、もし自分たちの足跡が何かの拍子にバレた場合、その人たち全員が警察に呼び出されて事情聴取を受ける羽目になる、という点だった。

「それって、完全にこっちの都合で人を巻き込んでるだけだよな」

 要するに、そういう発想である。

 元々アロは、進んで他人に迷惑をかけるタイプではない。もう少し踏み込んで言うなら、この引きこもり気味の男は、根っこのところで人付き合いがとことん苦手なのだ。自分で片づけられることなら、なるべく外の人間を巻き込みたくない。そういう本能みたいなものが染みついている。

 だからこそ、彼は迷いなく「亜空間航路」のルートを選んだ。自分とアヴィの力、そして【システム】の機能だけで問題を片づけるために。他の誰にも面倒を押しつけずに済むように。

 もちろん、そんな理屈をそのまま飲み込めるアヴィではない。

「何それ、『こっちが人に迷惑かけるからダメ』って。そもそも最初に迷惑かけてきたの、向こうのほうじゃん」と、むっとした顔で反論する。

「真夜中に、どっかのバカがわけ分かんないランキングなんかばらまいてさ、世界中の画面にあんたの名前ドーンって出して、こっちが逃げ回らなきゃいけない状況作ったの、あっちでしょ。どう考えても、迷惑かけられてる側はあたしたちなんだけど?」

 ここまで言われると、さすがのアロも、「迷惑をかけたくないから」という理由だけで押し通すのは少し無理があると自覚せざるをえなかった。そこで、今度はもう少しまじめな理由を口にする。

「亜空間航路を使ったほうが、単純に飛行機よりずっと早いんだよ。運が良ければ、いい航路を一本見つけるだけで、十数分で家に着ける可能性だってある。今いちばん大事なのは、とにかく早く帰ることだと思う」

「それに、母さんの体は前からずっとあんまり良くないだろ。今の俺たちにはもう力がある。母さんの病気だって何とかできるはずだ。いつまでも東京に隠れて、警察と鬼ごっこしてる場合じゃないだろ。だから、できるだけ早く家に帰るのが一番大事だと思うんだ」

 ここまで聞いて、アヴィは言い返す言葉もなく、最後にはしぶしぶこう答えた。

「……分かったよ。分かったから、亜空間で帰ろ」

 こうして、 エナジーシールドが正常に展開していることを確かめると、アヴィはアロの後に続いて「亜空間の扉」をくぐり、その姿を漆黒の通路の闇の中へと消していった。

 ふたりの姿が完全に扉の中へ飲み込まれると、その先に開いていた空間の裂け目も、肉眼でも分かるほどの速度で静かにふさがり始めた。三秒と経たないうちに、亀裂も、周囲に漂っていた光の粒も、すべて跡形もなく消え去る。

 アヴィの部屋は、再び元どおりの静かな寝室に戻った。何も変わらない、いつも通りの普通の部屋だ。まるで、ここで何かが開いたことも、何かが起きたことも、最初から一度もなかったかのように。

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