第29話 二人で選ぶ、まだ知らない部屋
八月の朝は、もう夏だった。
駅前の空気は熱を含んでいて、歩くだけで汗がにじむ。
蓮は改札の前で、腕時計を見た。
まだ五分前。
それなのに、落ち着かない。
――本当に、部屋見に行くんだな。
昨日までスマホの画面の中だった話が、
今日は現実になる。
胸の奥が、少しだけざわついた。
⸻
「ごめん、待った?」
振り向くと、薫が立っていた。
白いシャツに、淡い色のスカート。
いつもより少し大人びて見える。
「今来たとこ」
嘘だった。
でも、こういう嘘は、言いたくなる。
薫は小さく笑った。
「緊張してる?」
「少し」
「私も」
二人で笑う。
その笑いは、少しぎこちなく、でも優しかった。
⸻
不動産屋は、駅前の古いビルの二階にあった。
冷房が効いた室内。
壁に並ぶ間取り図。
スーツ姿の店員が、丁寧に説明する。
「学生さんの同居ですね」
その一言に、二人は少しだけ照れた。
蓮は思う。
――こういう風に見られるんだな。
現実が、急に形を持つ。
⸻
一件目は、築三十年のアパート。
外階段が錆びていて、廊下は少し傾いていた。
部屋に入ると、畳の匂い。
「……思ったより、古い」
薫が小さく言う。
蓮もうなずく。
写真では、もっと明るく見えた。
キッチンは狭く、
風呂は小さい。
でも――。
窓を開けると、風が入った。
遠くで、子どもの声。
夕立の匂い。
蓮は、ふと思う。
――ここで、暮らすのかもしれない。
⸻
「どう思う?」
帰り道、薫が聞いた。
「悪くない」
正直な感想だった。
でも、薫は少し黙った。
「私は、ちょっと不安」
その一言で、足が止まる。
「どこが?」
「狭いし……音も気になりそう」
蓮は少しだけ焦った。
自分は、現実を見ていなかったのかもしれない。
家賃が安い。
大学に近い。
それだけで決めようとしていた。
薫は、もっと先を見ていた。
⸻
二件目は、新しいマンションだった。
オートロック。
白い壁。
広いキッチン。
「ここ、いいね」
薫の目が少し輝く。
蓮も同じ気持ちだった。
でも――家賃が高い。
半分でも、今のバイトでは厳しい。
帰りの電車で、二人は黙っていた。
理想と現実が、はっきり見えたから。
⸻
駅に着いて、ベンチに座る。
夕方の光が、ホームを染めていた。
「……難しいね」
薫が言う。
「うん」
蓮は、しばらく考えてから言った。
「急がなくてもいい」
薫は顔を上げた。
「でも、ちゃんと考えたい」
蓮は続ける。
「同じ部屋に住むって、
ただ一緒にいたいだけじゃ、続かないと思う」
薫は静かにうなずいた。
その目が、少し優しかった。
⸻
少しして、薫がぽつりと言う。
「ねえ」
「うん?」
「今日、ちょっとだけ安心した」
「なんで?」
「ちゃんと悩んでくれたから」
その言葉に、胸が温かくなる。
蓮は思う。
恋は、勢いだけじゃない。
生活は、現実の積み重ねだ。
でも――。
それでも、一緒にいたいと思う。
その気持ちがあるなら、
きっと乗り越えられる。
⸻
別れ際、薫が言う。
「また、見に行こう」
「うん」
蓮はうなずく。
この未来は、簡単じゃない。
でも、怖くない。
二人で選ぶから。
帰り道、夜風が少し涼しかった。
蓮は思う。
まだ決まっていない部屋。
まだ知らない生活。
それでも――。
薫となら、歩いていける。
その確信が、静かに芽生えていた。
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