第3話 触れない距離
夏の気配が、街のあちこちに滲み始めていた。
朝の空気は少し湿り、昼には陽射しが強くなる。放課後の道には、素足に近い感覚を思わせる風が吹いた。
伊東蓮は、隣を歩く澄田薫の腕の振れ幅を、なぜか意識していた。
自分の手と、彼女の手。
ほんの数センチの間隔が、今日はやけに遠く感じられる。
「暑くなってきたね」
薫が、前を向いたまま言う。
制服の袖を少し引き上げる仕草が、目に入る。
「もう夏だな」
ありきたりな返事しかできない自分が、少し歯がゆい。
海沿いの道に出ると、視界が一気に開けた。
波打ち際に近い場所を歩く人影はまばらで、放課後の時間はまだ、この街を独占しているようだった。
薫は歩調を落とし、海のほうを見る。
その横顔を、蓮は一歩後ろから見つめる。
――触れたい、なんて。
そんな考えが浮かんだことに、蓮自身が驚いた。
手を伸ばせば、届く距離だ。
けれど、伸ばせない。
理由は簡単だった。
触れてしまえば、今の関係が壊れてしまう気がしたからだ。
「伊東くん」
「ん?」
「最近、静かだね」
不意に言われて、蓮は言葉に詰まる。
静か。
確かにそうかもしれない。
「考えごと、してるだけ」
「そっか」
薫はそれ以上、踏み込んでこなかった。
その優しさが、胸に染みる。
歩きながら、二人の影がアスファルトに伸びる。
影の距離は近いのに、実際の距離は、きちんと保たれている。
薫がふと立ち止まった。
「この前さ」
海を見たまま、続ける。
「放課後が好きって言ったでしょ」
「ああ」
「……あれ、本当だよ」
その言葉の意味を考えようとして、蓮は言葉を失う。
本当、という強調が、胸の奥に小さな波紋を広げた。
「誰かと一緒だと、余計に」
薫はそう言って、ちらりとこちらを見る。
すぐに視線を逸らしたが、頬がわずかに赤い気がした。
蓮の心臓が、はっきりと音を立てる。
「……俺も」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「俺も、嫌いじゃない。放課後」
それ以上は、言えなかった。
言ってしまえば、何かが変わってしまいそうだったから。
再び歩き出す。
肩が触れそうで、触れない距離。
風が吹き、薫の髪が一瞬だけ、蓮の腕に触れた。
それだけで、胸がぎゅっと締めつけられる。
触れない。
でも、確かに近づいている。
蓮は思う。
この距離が、いつか、
触れてもいい距離に変わる日が来るのだろうかと。
答えはまだ、潮風の中に溶けていた。
潮風の名前 @Soichi2010
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