第2話 放課後という名前の時間

放課後の校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 廊下に差し込む夕方の光が、ワックスのかかった床に反射して、ゆっくりと伸びていく。

 伊東蓮は教室の窓際に立ち、その光をぼんやりと眺めていた。


 ――また、今日も一緒に帰るんだろうな。


 そんな考えが自然に浮かぶことに、少しだけ戸惑う。

 約束をしたわけではない。

 けれど、気づけば放課後の終わりに、澄田薫が隣にいるのが当たり前になっていた。


「伊東くん、帰る?」


 背後から聞こえた声に、蓮は肩を小さく揺らす。

 振り向くと、薫が鞄を肩にかけて立っていた。

 少し首を傾げるその仕草は、いつもと変わらないのに、なぜか胸の奥がざわつく。


「あ、うん。帰る」


 それだけの会話。

 それだけなのに、並んで教室を出る瞬間、蓮は自分の歩幅を意識してしまう。

 速すぎないか、遅すぎないか。

 薫の隣にいることを、無意識のうちに気にしていた。


 昇降口を抜け、校門を出る。

 海のある街特有の、少し湿った風が頬をなでた。


「今日、部活なかったんだ?」


 薫が前を向いたまま言う。


「うん。テスト前だから」


「そっか。じゃあ、少し楽だね」


 そう言って、薫は小さく笑った。

 横顔に夕焼けが差し込み、髪の輪郭が柔らかく光る。


 ――きれいだな。


 口に出せるはずもない言葉を、蓮は胸の奥に押し込める。

 代わりに、沈黙を選んだ。


 沈黙は、気まずいものではなかった。

 むしろ、その静けさが心地よかった。


 同じ道を、同じ速度で歩く。

 互いに視線を合わせることは少なくても、隣にいることだけは確かだった。


 海が見える角を曲がると、潮の匂いが少し強くなる。

 薫は無意識のように足を緩め、海のほうを見た。


「この時間、好きなんだ」


「放課後?」


「うん。なんだか、昼より本当の気持ちが出やすい気がして」


 意外な言葉に、蓮は返事に詰まる。

 本当の気持ち。

 その言葉が、胸に小さく引っかかった。


「伊東くんは?」


 問われて、蓮は少し考える。


「……俺も、嫌いじゃない」


 正直な答えだった。

 放課後という曖昧な時間。

 何者でもなく、どこにも急がなくていいこの時間が、蓮には心地よかった。


 歩きながら、蓮は意識して距離を保つ。

 近すぎないように。

 けれど、離れすぎないように。


 その微妙な距離が、今の二人を表している気がした。


「ねえ、伊東くん」


「なに?」


「この道、卒業しても歩くのかな」


 唐突な問いに、蓮は足を止めそうになる。

 けれど、すぐに歩き出し、少し考えてから答えた。


「……さあ。でも、たぶん、歩くんじゃないかな」


「そっか」


 それだけで会話は終わる。

 けれど、胸の奥に、静かな波が立った。


 卒業。

 その言葉が、急に現実味を帯びる。


 今はただ、隣を歩いているだけなのに。

 この時間が、いつまでも続くわけじゃないことを、蓮はぼんやりと理解していた。


 海が視界に入る。

 夕焼けに染まった水面が、きらきらと揺れている。


 薫は立ち止まり、少しだけ海のほうを見た。


「……きれいだね」


「ああ」


 それ以上、言葉はいらなかった。


 沈黙の中で、蓮は思う。

 この人と並んで歩く放課後が、

 いつの間にか、自分にとって特別な時間になっていることを。


 まだ、それが恋だとは、はっきり言えなかったけれど。

 胸の奥に生まれた小さな予感だけは、確かにそこにあった。

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