潮風の名前

@Soichi2010

第1話 海のある街で

この街では、朝になると必ず潮の匂いがする。

 駅へ向かう道でも、学校へ続く坂道でも、それは変わらない。

 伊東蓮は、その匂いを吸い込みながら自転車をこいでいた。


 海が近いことを、特別だと思ったことはない。

 生まれたときから、ここに海はあった。

 波の音も、潮風も、日常の一部だった。


 校舎が見えてくる。

 白い壁に朝の光が反射して、少し眩しい。


「おはよう、伊東くん」


 聞き慣れた声に、蓮はブレーキをかける。

 校門の横で、自転車を押しながら立っているのは、澄田薫だった。


「おはよう」


 それだけのやり取り。

 けれど、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。


 薫とは、同じクラスだ。

 席が近いわけでも、特別に話すようになったきっかけがあるわけでもない。

 それでも、気づけば朝の挨拶を交わす存在になっていた。


 教室に入ると、窓から海が見える。

 薫は窓際の席に座り、ノートを開いていた。


 横顔を盗み見るつもりはなかった。

 ただ、視線を上げた先に、彼女がいただけだ。


 長いまつげが伏せられ、ペンを動かす指先が規則正しく動く。

 その何気ない姿が、なぜか頭から離れない。


 ――なんでだろう。


 蓮は首を傾げながら、自分の席に座った。


 授業が始まると、いつもの日常が流れていく。

 板書、先生の声、ノートを取る音。

 変わらないはずの風景の中で、蓮は何度か、薫のほうを意識してしまう。


 昼休み、窓から見える海は、朝よりも少し青くなっていた。


「伊東くんってさ」


 突然、後ろから声をかけられる。


 振り向くと、薫が立っていた。


「この景色、好き?」


 一瞬、言葉に詰まる。

 そんなことを聞かれるとは思っていなかった。


「……まあ、嫌いじゃない」


「そっか」


 それだけで、薫は小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、蓮の胸が不思議な音を立てた。

 説明できない感覚だった。


 放課後、教室を出る。

 薫は少し遅れて廊下に出てきた。


「一緒に帰る?」


 その一言が、自然すぎて、蓮は一瞬迷ってから頷いた。


「ああ」


 それが、すべての始まりだったのかもしれない。


 夕方の校舎を出ると、潮風が強くなる。

 二人で並んで歩きながら、蓮は思う。


 この街で、

 この海のそばで、

 彼女と過ごす時間が、少しずつ特別になっていく予感がした。


 まだ、それが恋だとは、気づいていなかったけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る