第38話 同じ部屋にいながら、違う場所を見ている
十一月の夜は、冷え込みが強くなっていた。
窓の外では、風が弱く吹いている。
街の音もどこか遠く、部屋の中は静まり返っていた。
テーブルの上には、開かれたままのノートパソコン。
画面は暗くなりかけている。
伊東蓮は、その前に座ったまま動いていなかった。
数日前の会話が、頭から離れない。
将来の話。
進路。
そして――一緒にいることの意味。
澄田薫は、ベッドの端に座っていた。
スマホを手にしているが、画面はほとんど見ていない。
同じ部屋にいる。
同じ空間にいる。
それなのに――
どこか遠い。
「……ねえ」
薫が静かに口を開いた。
蓮は顔を上げる。
「うん」
「ちょっとだけ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「距離、置かない?」
その一言で、時間が止まったように感じた。
蓮は、すぐには答えられなかった。
「距離って」
ようやく言葉を出す。
「どういう意味?」
薫は視線を落としたまま答える。
「少しだけ、別々に過ごす時間を作るっていうか」
曖昧な言い方。
でも、意図ははっきりしていた。
「……一緒に住んでるのに?」
「うん」
小さくうなずく。
蓮は息を吐いた。
正直に言えば、納得はできなかった。
せっかく一緒にいるのに、離れるなんて。
でも同時に、分かってもいた。
このままでは、うまくいかないかもしれないということを。
「なんで」
短く聞く。
薫は少しだけ顔を上げた。
「ちゃんと考えたいから」
その言葉は、迷いなく出てきたものだった。
「蓮のことも」
少し間を置いて、
「自分のことも」
蓮は何も言えなかった。
「今のままだと」
薫は続ける。
「なんとなく一緒にいるまま、決めちゃいそうで」
それは、蓮が一番避けたかった未来だった。
「それって」
蓮は言う。
「別れるってことじゃないよな」
少しだけ声が低くなる。
薫はすぐに首を振った。
「違う」
はっきりと。
「離れるためじゃなくて」
「続けるために」
その言葉に、蓮の中で何かが静かに揺れる。
納得はできない。
でも、拒否もできない。
長い沈黙。
やがて、蓮は小さく言った。
「……どのくらい」
薫は少し考える。
「一週間とか」
一週間。
長いようで、短い。
でも――
今の二人には、十分な時間だった。
「その間は?」
「それぞれで考える」
シンプルな答え。
蓮は目を閉じる。
一緒に住み始めてから、
初めて「離れる」ことを前提に話している。
それが、こんなにも現実的に感じるとは思わなかった。
「……分かった」
静かに言う。
薫は少しだけ驚いた顔をする。
「いいの?」
「よくはない」
正直に言う。
「でも」
少し間を置いて、
「必要なんだろ」
薫はゆっくりうなずいた。
その夜、二人は多くを話さなかった。
ただ、必要なことだけを決める。
誰がどこに行くか。
いつ戻るか。
「私、実家に帰る」
薫が言う。
「そっか」
蓮はうなずく。
「蓮は?」
「ここにいる」
それが自然だった。
荷物をまとめる音が、部屋に響く。
それは引っ越しのときとは違う音だった。
軽いはずの荷物。
でも、妙に重く感じる。
玄関の前。
「じゃあ」
薫が言う。
「うん」
言葉が続かない。
「また連絡する」
「分かった」
ドアが開く。
冷たい空気が流れ込む。
そして――
閉まる音。
部屋に、静寂が戻る。
蓮はしばらく、その場に立っていた。
さっきまで、そこにいたはずの気配がない。
それだけで、空間が広く感じる。
ベッドを見る。
半分が、空いている。
当たり前のはずの静けさが、やけに重かった。
蓮はゆっくりと座り込む。
思う。
一緒にいるために、離れる。
それは正しいのかもしれない。
でも――
こんなにも、不安になる選択だとは思わなかった。
一方、外に出た薫は、夜道を歩いていた。
風が冷たい。
でも、それ以上に胸の中が落ち着かない。
振り返りたくなる。
戻りたくなる。
それでも、歩く。
立ち止まらない。
これは、逃げじゃない。
そう自分に言い聞かせる。
続けるための選択。
でも――
その先に何があるのかは、まだ分からなかった。
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