第37話 その先を、同じ方向で見られるか

十月の終わり。

 空気はすっかり秋になっていた。


 大学のキャンパスには、少しずつ「就活」という言葉が増え始めている。


 まだ本格的ではない。

 それでも、どこか現実味を帯びて、学生たちの間を漂っていた。



 その日の夜。


 部屋のテーブルには、ノートパソコンが開かれていた。


 画面には企業の採用ページ。


 澄田薫が、静かにそれを見つめている。



 伊東蓮は、少し離れた場所からその様子を見ていた。


「もう見てるのか」


 軽く言ったつもりだった。


 でも、薫は振り向かずに答える。


「うん、ちょっとだけ」


 その声は、いつもより少しだけ硬かった。



 部屋の空気が、ほんの少し変わる。


 日常の中に、現実が入り込んできたような感覚。



「早くない?」


 蓮はそう言った。


 まだ二年生。

 本格的に動くには、少し先のはずだ。



 薫はゆっくりと画面を閉じた。


「早いかもね」


 そう言ってから、少し間を置く。


「でも、考えないといけないでしょ」



 その言葉に、蓮は何も返せなかった。




 沈黙。


 短いはずなのに、少し長く感じる。



「蓮は?」


 薫が振り向く。


「何か考えてる?」




 その問いは、軽いものではなかった。


 ただの進路の話ではなく、

 もっと先――二人の未来に繋がる問いだった。




「……まだ」


 蓮は答える。


 正直な気持ちだった。


 やりたいことは、はっきりしていない。


 なんとなく、どこかに就職するんだろう、という程度。



 薫は小さくうなずく。


「そっか」


 責めるわけでもない。


 でも、どこかで距離ができたような気がした。



「薫は?」


 蓮が聞き返す。



「私は……」


 薫は少し考える。


「できれば、こっちで働きたい」



 “こっち”という言葉の意味は、すぐに分かった。


 今住んでいるこの街。

 この生活。



「そっか」


 蓮は言う。


 でも、その先の言葉が続かない。



 薫は静かに続ける。


「せっかく一緒に住んでるし」


 その言葉は、優しい。


 でも、同時に重かった。



 蓮の中に、わずかな引っかかりが生まれる。


 ――それって、もう決まってるのか?



「……蓮は?」


 再び問われる。



 蓮は少し目を逸らした。


「分からない」


 その一言。



 空気が、少し冷える。



「分からないって」


 薫が言う。


「場所も?」



「うん」


 蓮は答える。


「どこになるか分からないし」



 それは現実的な話だった。


 就職先によっては、この街を離れることもある。



 薫は、しばらく何も言わなかった。



 その沈黙が、重くなる前に、蓮は言う。


「まだ先の話だろ」



 その言葉は、少しだけ逃げに近かった。



 薫はゆっくりと首を振る。


「先だけど」


 静かな声。


「先だから、考えるんだよ」



 その言葉は、まっすぐだった。



 蓮は何も言えなくなる。



 薫は続ける。


「一緒にいたいって思ってるから」


 一瞬、視線が揺れる。


「ちゃんと考えたいの」



 その言葉で、蓮の胸が少し締め付けられる。



 同棲は、今の話だった。


 でも、これは違う。


 この先も一緒にいるのかという話。



「……ごめん」


 蓮は言った。


 自然に出た言葉だった。



「なんで謝るの」


 薫は少しだけ困ったように笑う。



「ちゃんと考えてなかった」



 その言葉に、薫は静かにうなずく。



「いいよ」


 そう言ってから、


「でも、これから考えてくれたらいい」



 その言い方は、優しかった。


 でも、どこかに期限があるようにも感じた。



 夜は静かに流れる。


 そのあと、二人はあまり多くを話さなかった。



 同じ部屋にいる。


 同じ空間で過ごす。


 でも、見ているものが少し違っていた。



 蓮は思う。


 同棲は「今」を共有することだった。


 でも――


 将来は、「選ぶ方向」が同じでなければ続かない。



 それが、初めてはっきりと形を持った。


ベッドに入る。


 隣には、いつも通り薫がいる。


 距離も、変わらない。



 それでも、心のどこかに小さな違いがあった。



 同じ場所にいても、

 同じ未来を見ているとは限らない。



 その当たり前のことに、二人は静かに気づき始めていた。

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