第39話 戻る場所を、もう一度選ぶ

七日目の午後。


 空は薄く曇っていた。


 晴れでも雨でもない、どこか曖昧な天気。


 その空気は、今日の二人の心情によく似ていた。



 伊東蓮は、部屋の中で一人、ソファに座っていた。


 時計を見る。


 約束の時間まで、あと十分。



 部屋は、あの日のままだった。


 薫が出て行った日から、大きくは変えていない。


 片付けることはできたはずなのに、

 どこかで手をつけられなかった。



 玄関の方を見る。


 静かな空間。



 ――来る。



 その実感だけが、やけに強くあった。



 一方で、澄田薫は駅からの道を歩いていた。


 見慣れた道。


 でも、今日は少しだけ遠く感じる。



 あの部屋へ戻る。


 それは、ただ帰るというより――


 もう一度選びに行くという感覚に近かった。



 足を止めそうになる。


 でも、止まらない。



 ここまで来て、逃げる理由はなかった。



 やがて、アパートの前に着く。



 深く息を吸う。


 ゆっくり吐く。



 ドアの前に立つ。



 数秒、動けない。



 それでも、ノックをする。



 コン、コン。



 すぐに、内側から足音。



 ドアが開く。



 目が合う。



「……久しぶり」


 薫が言う。



「うん」


 蓮が答える。



 それだけの会話。


 でも、その中に、七日分の時間が詰まっていた。



「入って」



 薫は小さくうなずき、部屋に入る。



 靴を脱ぐ。


 見慣れたはずの空間。


 でも、少しだけ違って見える。



 静かな時間。



 二人はテーブルを挟んで向かい合う。



 何から話せばいいのか分からない。


 でも――


 話さなければいけないことは分かっている。



「……どうだった」


 先に口を開いたのは蓮だった。



 薫は少し考える。



「考えた」


 短く答える。



「いっぱい」



 蓮はうなずく。


「俺も」



 また、少しの沈黙。



 でも、今度は逃げなかった。



「俺さ」


 蓮が言う。



 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。



「やりたいこと、まだちゃんと分かんない」



 薫は静かに聞いている。



「でも」


 少し息を吸う。



「一緒にいたいっていうのは、はっきり分かった」



 その言葉は、迷いがなかった。



 薫の表情が、わずかに揺れる。



「だから」



「それを前提に、考えたい」



 それは、以前とは違う言葉だった。



 “ただ一緒にいたい”ではない。


 一緒にいることを前提に、現実も考えるという選択。



 薫はゆっくりと目を閉じる。


 そして、小さく息を吐いた。



「……よかった」



 そう呟く。



「私もね」



 顔を上げる。



「同じこと思った」



 蓮は少し驚く。



「将来のこと、ちゃんと考えたい」



「でも」



 少しだけ笑う。



「蓮がいない未来は、あんまり想像できなかった」



 その言葉は、静かで、正直だった。



 部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。



「じゃあ」


 蓮が言う。



「どうする?」



 薫は少し考える。



「無理に場所を合わせるんじゃなくて」



「それぞれちゃんと考えて」



「その中で、一緒にいられる形を探す」



 現実的で、少し遠回りな答え。



 でも、それが一番正しかった。



 蓮はうなずく。



「うん」



 短い返事。


 でも、十分だった。



 少しの沈黙。



 今度は、悪くない沈黙だった。



「……戻ってもいい?」


 薫が小さく言う。



 その言葉に、蓮は少し笑った。



「それ、聞く必要ある?」



 薫も、少しだけ笑う。



 立ち上がる。



 距離が、少し縮まる。



 自然に、すぐ近くに立つ。



 触れそうな距離。



 でも、すぐには触れない。



 その間にある空気が、少しだけ心地よかった。



「ただいま」


 薫が言う。



「おかえり」


 蓮が答える。



 そのやり取りは、以前と同じはずなのに、

 どこか違っていた。



 選び直した関係。



 ただ一緒にいるのではなく、

 一緒にいることを選んだ二人。



 夜。



 同じ部屋。


 同じベッド。



 距離は、以前と同じ。



 でも――


 心の距離は、少しだけ変わっていた。



 近すぎて見えなかったもの。


 離れたことで、はっきりしたもの。



 それを持ったまま、

 二人はもう一度、同じ場所に戻ってきた。



 これで終わりではない。



 むしろ――


 ここからが、本当の意味での「一緒にいる」始まりだった。

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