第36話 何もしない日、隣にいる意味

日曜の朝は、静かだった。


 平日の慌ただしさが嘘のように、部屋の中にはゆるやかな時間が流れている。


 カーテンの隙間から差し込む光が、床の上にやわらかく広がっていた。


 ベッドの上で、伊東蓮はゆっくりと目を覚ました。


 目覚ましの音はない。

 急ぐ理由もない。


 ただ、自然に起きる朝。


 それだけで、どこか安心する。



 隣には、澄田薫が眠っていた。


 少しだけ丸まるようにして、静かに呼吸を繰り返している。


 蓮は、その寝顔をしばらく見ていた。


 特別なことではないはずなのに、

 この光景が、どこか大切なもののように感じられた。



 先週のことが、ふと頭に浮かぶ。


 家事のことで、少し言い合いになった夜。


 大きな喧嘩ではなかった。


 でも、言葉にしたことで、互いの違いがはっきりと見えた。



 それでも、こうして同じ朝を迎えている。


 それが答えのようにも思えた。



「……ん」


 薫が小さく動く。


 ゆっくりと目を開ける。


「おはよ……」


 少し眠そうな声。


 蓮は自然に返す。


「おはよう」



 少しの沈黙。


 でも、その沈黙は気まずくない。



「今日、何する?」


 薫が聞く。


 その問いに、蓮は少し考える。


 やるべきことはある。

 掃除も、買い物も、片付けも。


 でも――


「何もしないでいいんじゃないか」


 そう言った。



 薫は少しだけ目を丸くして、

 それからふっと笑った。


「いいね、それ」



 結局、二人はしばらくベッドから動かなかった。


 特別な会話もない。


 ただ、同じ空間にいる。


 それだけの時間。



 昼前になって、ようやく起き上がる。


 キッチンに立つ。


「何か作る?」


「簡単なのでいい」


 そんな会話を交わしながら、二人で準備をする。



 パンを焼く音。

 コーヒーの香り。


 小さな生活の気配が、部屋を満たしていく。



 テーブルに並べて、向かい合って座る。


「いただきます」


 自然と手を合わせる。



 何気ない朝食。


 特別な料理ではない。


 でも、先週よりも少しだけ空気が柔らかかった。



「ねえ」


 薫が言う。


「この前のさ」


 蓮は顔を上げる。


「うん」


「ちゃんと話せてよかった」


 まっすぐな言葉だった。



 蓮は少しだけ考えてから、うなずく。


「ああ」



「なんかさ」


 薫は続ける。


「一緒に住むって、もっと簡単だと思ってた」


 苦笑い。



「俺も」


 蓮も同じように笑う。



「でも」


 薫は言う。


「こうやって話せるなら、大丈夫な気がする」



 その言葉は、静かだった。


 でも、確かな重みがあった。



 食事のあと、二人はソファに並んで座る。


 テレビをつける。


 内容はあまり頭に入ってこない。


 ただ、同じ画面を見ている。



 時間がゆっくり流れる。


 時計の針の音が、やけに大きく感じるほどに。



 ふと、薫が少しだけ体を寄せる。


 ほんの少しの距離。


 でも、それが自然だった。



 蓮は何も言わず、そのままでいる。


 拒まない。


 強く引き寄せもしない。



 ただ、隣にいる。



 外では、風が木を揺らしている。


 どこかの家の洗濯物が揺れる音。


 遠くで子どもの笑い声。



 何でもない日。


 何も起きない日。



 それでも――


 この時間が、確かに満たされていると感じられた。



 夕方。


「ちょっと散歩する?」


 薫が言う。


「いいな」


 蓮は立ち上がる。



 二人で外に出る。


 空は少しオレンジに染まり始めている。


 並んで歩く。


 言葉は少ない。



 でも、不思議とそれでよかった。



 途中で、手が触れる。


 一瞬だけ。


 それから、自然に重なる。



 以前よりも、少しだけ自然に。


 少しだけ迷いなく。



 蓮は思う。


 同棲は、特別な出来事の連続ではない。


 むしろ――


 こういう「何もない日」の積み重ねだ。



 そして、その何もない日の中で、

 少しずつ距離が近づいていく。



 夜、部屋に戻る。


 同じ空間。

 同じ灯り。



 薫が小さく言う。


「今日、よかった」



 蓮はうなずく。


「俺も」



 それ以上の言葉はなかった。


 でも、必要もなかった。



 何もしない日。


 ただ一緒にいる日。



 その中で、二人は確かに――


 少しだけ、同じ時間を生きることに慣れていっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る