第35話 「やってる」と「足りない」の間

。


 生活は、少しずつ形になってきていた。


 朝起きる時間。

 帰る時間。

 食事のタイミング。


 完全に揃っているわけじゃない。

 でも、それなりに回っている。


 ――はずだった。


⸻


 夜。


 蓮は部屋のドアを開けた。


「ただいま」


 返事はない。


 リビングを見る。


 電気はついている。


 でも――


 シンクに、皿が溜まっていた。


⸻


 朝のままのコップ。

 昼に使ったらしい皿。

 フライパンも、そのまま。


 少しだけ、ため息が出る。


⸻


「……はぁ」


 小さく息を吐く。


 責めるつもりはない。


 薫も忙しいのは分かっている。


 でも――


 気づいた方がやるという空気が、自然にできていた。


⸻


 袖をまくる。


 水を出す。


 皿を洗う。


 水の音だけが、部屋に響く。


⸻


「ただいま」


 そのとき、薫が帰ってきた。


「おかえり」


 振り返らずに答える。


 薫は少し驚いた声を出す。


「ごめん、洗ってくれてる?」


「うん」


 短く答える。


 自分でも、少しだけ声が固いと分かった。


⸻


「やろうと思ってたんだけど」


 薫が言う。


「時間なくて」


「うん」


 分かっている。


 でも、その言葉だけで終わらせると、

 何も変わらない気がした。


⸻


 水を止める。


 タオルで手を拭く。


 振り返る。


⸻


「さ」


 言葉を選ぶ。


「最近、こういうの多くない?」


 薫は少し黙る。


⸻


「……そうかも」


 素直な答えだった。


 でも、それだけじゃ足りない気がした。


⸻


「俺もやってるけどさ」


 蓮は言う。


「全部俺がやる感じになってるのは、ちょっと違うと思う」


 その言葉で、空気が少し変わる。


⸻


 薫はゆっくり息を吐いた。


「やってないつもりはないよ」


 静かな声。


「洗濯とか、私やってるし」


 確かにそうだった。


 蓮は一瞬、言葉に詰まる。


⸻


「分かってる」


 でも続ける。


「ただ、偏ってる気がする」


 薫は目を伏せる。


⸻


「……ごめん」


 小さな声。


 その謝り方が、少しだけ引っかかった。


⸻


「謝ってほしいわけじゃなくて」


 蓮は言う。


「ちゃんと分けた方がいいと思う」


⸻


 沈黙。


 少し長い沈黙。


⸻


「じゃあ、決める?」


 薫が言う。


 その声は、少しだけ硬かった。


⸻


「俺はいいよ」


「じゃあ」


 薫は指を折りながら言う。


「料理は私多め、洗い物は蓮」


「洗濯は私、掃除は交代」


 淡々とした口調。


 決めていく。


⸻


 効率的。

 合理的。


 でも――


 どこか、少し寂しかった。


⸻


「それでいい?」


 薫が聞く。


 蓮はうなずく。


「うん」


⸻


 その後、会話は少なかった。


 ご飯を食べる。


 片付ける。


 それぞれの時間。


⸻


 ベッドに入る。


 隣に薫がいる。


 でも、少しだけ距離を感じる。


⸻


 蓮は思う。


 喧嘩したわけじゃない。


 怒鳴ったわけでもない。


 でも――


 言葉にしたことで、見えたものがある。


⸻


 お互いに「やっている」という意識。

 でも、「足りない」と感じる部分。


 それは、どちらが正しいとかじゃない。


⸻


 ただ、

 違うだけ。


⸻


「ねえ」


 暗闇の中で、薫が言う。


「うん?」


「さっきの、ありがと」


 蓮は少し驚く。


「なんで?」


「言ってくれて」


 少し間があって、


「言わないままだと、もっとズレてたと思う」


⸻


 蓮は、少しだけ力が抜けた。


「俺も、言い方悪かったかも」


「ううん」


 薫は小さく笑う。


「ちゃんと話せた」


⸻


 その言葉で、少し距離が戻る。


⸻


 手が、少しだけ触れる。


 昨日より、少し自然に。


⸻


 蓮は目を閉じる。


 思う。


 同棲は、楽しいだけじゃない。


 でも――


 こうやって、少しずつ調整していく。


⸻


 それが、

 一緒に生活するということなんだと思った。

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