第33話 鍵の重さ

九月の終わり。

 空は高く、夏の色が少しずつ抜けていた。


 駅前の風は、もう涼しい。


 蓮は改札の前で立っていた。


 手のひらに、少しだけ汗がにじんでいる。


 ――今日、決まる。


 部屋。

 生活。

 未来。


 全部が、現実になる日。



「お待たせ」


 振り向くと、薫がいた。


 いつもと同じはずなのに、少しだけ違って見える。


 それはたぶん、今日が特別だからだ。


「行こうか」


「うん」


 二人で並んで歩き出す。


 歩幅は、自然に揃っていた。



 不動産屋に入ると、前に担当してくれた店員が微笑んだ。


「例の物件、まだ空いてますよ」


 その一言で、心臓が少し強く鳴る。


 あの部屋。


 新しすぎず、古すぎず。

 家賃も、なんとか届く範囲。


 完璧じゃない。

 でも――現実的だった。



「もう一度、見に行きますか?」


 店員の言葉に、二人は顔を見合わせる。


 蓮はうなずいた。


「お願いします」



 部屋に入るのは、二回目だった。


 それでも、空気が違う。


 前は「候補」だった。

 今日は――「選ぶ場所」だ。


 玄関。

 靴を脱ぐ。


 廊下を歩く。


 リビングに入る。


 日差しが、床に落ちている。



「……どう思う?」


 薫が小さく聞く。


 蓮は部屋を見渡す。


 広すぎない空間。

 二人で暮らすには、ちょうどいい。


「いいと思う」


 素直な言葉だった。


 薫は少し安心したように笑う。


「私も」



 キッチンを見る。


「ここで料理するんだな」


 何気なく言うと、薫が少し照れた。


「ちゃんとするよ」


「期待してる」


 二人で笑う。


 その会話が、もう生活の一部みたいだった。



 窓を開ける。


 風が入る。


 遠くで車の音。

 どこかの家のテレビの音。


 誰かの生活が、すぐ近くにある。


 その中に、自分たちも入る。


 蓮は、静かに思った。


 ――ここで、暮らす。



「決める?」


 薫が言う。


 声は落ち着いている。


 でも、少しだけ緊張しているのが分かる。


 蓮は深く息を吸う。


「……決めよう」


 その一言で、すべてが動き出した。



 不動産屋に戻る。


 書類に名前を書く。


 住所。

 名前。

 連絡先。


 ペンを持つ手が、少しだけ重い。


 でも、止まらない。


 書き終える。


 薫も、隣で書いている。


 二人の名前が、同じ書類に並ぶ。


 それだけで、胸が少し熱くなる。



「では、こちら鍵になります」


 店員が差し出した。


 小さな金属の鍵。


 それだけなのに、重く感じた。


 蓮は、それを受け取る。


 冷たい。


 でも、確かな重みがある。



 外に出ると、夕方だった。


 空が少しオレンジに染まっている。


 二人は、しばらく何も言わなかった。


 ただ、歩く。


 鍵は、ポケットの中。


 何度も、存在を確かめたくなる。



「ねえ」


 薫が言う。


「うん?」


「実感ある?」


 蓮は少し考える。


「半分くらい」


 薫が笑う。


「私も」



 少し歩いて、ベンチに座る。


 蓮はポケットから鍵を出す。


 手のひらに乗せる。


 夕焼けの光で、少し光る。


「これがさ」


 蓮が言う。


「俺たちの部屋の鍵」


 薫はそれを見つめる。


 ゆっくり、手を伸ばす。


 蓮の手の上に、そっと重ねる。


 鍵を、一緒に触る。



「変な感じ」


 薫が小さく言う。


「でも、嬉しい」


 蓮はうなずく。


「俺も」



 その瞬間、蓮ははっきり思った。


 これはもう、ただの恋じゃない。


 一緒に生きる準備だ。



 日が落ちる。


 街に灯りがつく。


 帰り道、二人は自然に手をつないだ。


 前よりも、少し強く。



 鍵は、ポケットの中で揺れる。


 小さな音。


 でも、それは確かに――


 未来が動き出した音だった。

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