第31話 初めて本気で喧嘩する日

九月の夜だった。


 夏はまだ終わっていないのに、風だけが少し秋に近づいていた。


 蓮はコンビニ袋を片手に、薫のアパートへ向かっていた。


 夜の住宅街は静かで、街灯の光が地面に丸く落ちている。


 ――今日は普通の夜のはずだった。


 夕飯を一緒に食べて、

 少し話して、

 いつもみたいに笑う。


 ただ、それだけのはずだった。


⸻


 部屋のドアをノックする。


「薫、俺」


 すぐにドアが開く。


「いらっしゃい」


 いつも通りの声。

 いつも通りの笑顔。


 でも、部屋に入った瞬間、蓮は少し違和感を感じた。


 テーブルの上に、ノートとペン。


「どうしたの?」


 蓮が聞くと、薫は少しだけ真面目な顔になる。


「話したいことある」


 胸が、少しだけざわついた。


⸻


 二人でテーブルに座る。


 薫はノートを開いた。


 そこには数字が並んでいた。


「生活費、計算してみた」


 蓮は少し驚く。


「そんな細かく?」


「だって必要でしょ」


 薫はペンで指し示す。


 家賃。

 食費。

 光熱費。

 通信費。


 細かく書かれている。


「これだと……」


 薫は言う。


「蓮のバイト、もう少し増やさないと厳しいと思う」


 その言葉で、空気が少し変わった。


⸻


「増やすって言っても」


 蓮は言う。


「今でも結構入ってる」


「でも足りない」


「そこまでカツカツで住む意味ある?」


 自分でも、声が少し強くなっているのが分かった。


 薫は静かに言う。


「意味じゃなくて、現実」


 蓮は、少し苛立つ。


「そんなに完璧にしなくてもいいだろ」


 沈黙。


 薫の表情が、少し曇る。


⸻


「蓮ってさ」


 薫が言う。


「楽観的すぎる」


 その一言が、胸に刺さる。


「ちゃんと考えてるよ」


「本当に?」


 薫の声は強くない。


 でも、真剣だった。


「私、怖いんだよ」


 蓮は言葉を失った。


⸻


「好きだから一緒に住みたい」


 薫は続ける。


「でも、それだけで始めて、

 お金で喧嘩したり、

 生活で疲れたりして……」


 そこで止まる。


「嫌いになったら嫌だから」


 その言葉で、胸の奥が締め付けられる。


 薫は、本気で考えていた。


 未来を。


 二人の関係を。


⸻


 でも、蓮の中にも感情があった。


「じゃあ、やめる?」


 つい言ってしまった。


 薫の目が大きくなる。


「そういうことじゃない」


「でも、そんなに不安なら」


 言葉が止まらない。


「無理して住まなくてもいいだろ」


 沈黙。


 長い沈黙。


⸻


 薫は立ち上がった。


 窓の前に立つ。


 背中しか見えない。


「……蓮って」


 小さな声。


「たまに逃げるよね」


 その言葉は、静かだった。


 でも、痛かった。


⸻


 蓮は何も言えなかった。


 自分でも分かっていた。


 難しい話になると、

 少し距離を取ろうとする。


 傷つくのが怖いから。


 でも、薫は違った。


 ちゃんと向き合おうとしている。


⸻


 数分後。


 薫が振り向く。


 目が少し赤かった。


「ごめん」


 先に言ったのは薫だった。


「言いすぎた」


 蓮は首を振る。


「俺の方こそ」


 少しだけ笑う。


「逃げてた」


⸻


 二人でソファに座る。


 さっきより、距離が近い。


 薫が小さく言う。


「同棲、やめたいわけじゃない」


「俺も」


「ただ……ちゃんと始めたい」


 蓮はうなずく。


 それは、同じ気持ちだった。


⸻


「もう一回考えよう」


 蓮が言う。


「もっと現実的に」


 薫がうなずく。


 それから、少し笑う。


「初めて喧嘩したね」


「だな」


 蓮も笑う。


⸻


 夜は静かだった。


 でも、蓮は思った。


 今日の喧嘩は、悪いものじゃない。


 むしろ――


 二人が本当に未来を考え始めた証拠だった。


 この先、もっと衝突するかもしれない。


 でも、それでも。


 薫となら、

 乗り越えられる気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る