第5話セーラー服の第百代内閣総理大臣
投票日当日、日本列島は静まり返っていた。しかしそれは停滞ではなく、巨大なエネルギーが放出される直前の、嵐の前の静けさだった。
午後八時。開票速報の画面が切り替わった瞬間、日本中が、そして世界が息を呑んだ。
画面の日本地図は、若槻さなえ率いる民自党の赤ではなく、民主党のイメージカラーである「青」で瞬く間に塗り潰されていったのだ。
若槻首相が絶対の自信を持っていた戦時ナショナリズムは、一人の少女が提示した「平和への数式」の前に敗北した。国民は、銃を取る勇気ではなく、対話によって未来を再構築する知性を選択した。
民主党の獲得議席は、憲法改正の発議すら可能にする衆議院の三分の二――三二〇議席を超える、歴史的な大勝利となった。
だが、その夜、勝利の咆哮に沸く民主党本部に、主役の姿はなかった。
なゆは自宅の学習机に向かい、二週間後に迫った東京大学二次試験の、過去三十年分の英語の問題を解き直していた。
「……よし、構文の構造把握は完璧」
選挙戦の熱狂も、史上最年少の総理大臣誕生という歴史の重みも、今の彼女にとっては、目の前の難解な英文解釈と同じ「クリアすべき課題」に過ぎなかった。
二月下旬。本郷、東京大学。
雪のちらつく赤門近く、合格発表の掲示板の前に、水樹なゆは立っていた。
周囲を何百人もの報道陣と、イヤホンを耳にした屈強なSPたちが二重三重に取り囲むという、異様な光景。受験生たちはその異質な空気に怯えながらも、彼女の背中に敬意の眼差しを送っていた。
掲示板の「理科三類」の欄。
なゆは自分の受験番号を見つけると、少しだけ頬を緩ませ、小さく、しかし力強くガッツポーズをした。
「理三、合格です」
彼女が呟いた直後、胸のポケットでスマートフォンが激しく振動した。岡田克也からの着信だった。
『おめでとう、水樹さん……いや、水樹総理。合格発表を見届けたら、すぐに国会議事堂へ向かってくれ。首班指名選挙の時間だ。国家が、君を待っている』
「はい。制服のままで失礼します、岡田さん」
三月。桜蔭高等学校、卒業式。
湯島の静謐な講堂に、卒業生たちの涙と、どこか晴れやかな空気が満ちていた。
「卒業生代表、水樹なゆ」
名前を呼ばれ、教壇に立ったなゆの胸には、卒業生代表の証である真紅のリボンが揺れていた。その下にある心臓には、日本国第百代内閣総理大臣という、一億二千万人の命を預かる最高責任者としての重圧が刻まれている。
「……私たちは、歴史の目撃者ではなく、当事者であることを選びました」
彼女の答辞は、同級生たち、そして中継を見守る全国民の魂を震わせた。
卒業式の数時間後、彼女は校門の前で友人たちと最後のリボンを交換し合うと、待機していた専用車へと乗り込んだ。
首相官邸。
真っ赤な絨毯が敷かれた大階段を、セーラー服を纏った少女が登っていく。出迎える閣僚や官僚たちは、彼女の若さにではなく、その瞳に宿る圧倒的な「知の覚悟」に圧倒され、深く頭を下げた。
「水樹なゆ、十八歳。日本国、第百代内閣総理大臣に指名されました」
重厚な執務室の椅子に、彼女は深く腰を下ろした。
史上最年少、そして現役女子高生総理大臣。日本という国家が、行き詰まった現状を打破するために、ついに「アカウント」を切り替えた歴史的瞬間だった。
世界中の首脳から、祝電と、同時に「試してやる」という意図の透けるメッセージが届く中、なゆは机の上に一冊のノートを開いた。
そこには、これから向かう北京での首脳会談の緻密な交渉ストラテジーの横に、まだ解き終わっていない医学部の入学課題――「ミトコンドリアの代謝経路」についての考察が、全く同じペンで記されていた。
女子高生総理大臣。
彼女の物語は、ここから「伝説」の第二章へと突入していく。
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