第3話岡田克也の賭け

​「宣戦布告」という名の激震から三日が経過した。

日本中は、異様な高揚感と、それ以上に重苦しい沈黙に支配されていた。街中の大型ビジョンには軍歌のようなBGMと共に自衛隊の威容が映し出され、ネット上では「非国民」探しが始まっている。

​一月半ば。夕暮れの本郷通り。

予備校での直前講習を終えた水樹なゆは、吐く息の白さに首をすくめながら、駅へと歩いていた。カバンの中には、昨日解いたばかりの物理の演習ノートが入っている。

世界がどれほど狂気に傾こうとも、エントロピーは増大し、光速は不変だ。なゆはその不変の真理だけを杖にして、崩れそうな日常を歩いていた。

​その時、歩道に沿うようにして、一台の黒塗りのセダンが静かに滑り込んできた。

​通行人たちが怪訝な顔で足を止める中、後部座席のドアが開き、一人の男が降り立った。

仕立ての良いスーツ。硬い表情。そして、テレビで見かけるよりもずっと深く刻まれた眉間の皺。

​「……岡田、代表?」

​なゆは足を止め、思わず呟いた。

民主党代表、岡田克也。挙国一致の空気に抗い、解散総選挙を勝ち取ったものの、世論からは「売国奴」とまで罵られている悲運の政治家だ。

​「水樹なゆさん。突然の非礼、許してほしい」

​岡田は、警護の人間を制し、なゆの真っ正面に立った。その目は、乾いた絶望の淵でなお、一点の火を灯しているような鋭さがあった。

​「君の書いた『ゲーム理論による多極的外交平衡』の論文、そして一昨年の数学オリンピックでの、あの独創的な解答……すべて読ませてもらった。党のシンクタンクが、君という異能の存在をリストアップしてきたんだ」

​「私の……論文?」

​なゆは当惑した。それは彼女が趣味の一環でネットの学術アーカイブに投稿した、未熟な試論に過ぎなかったはずだ。

​「君こそが、今の日本に欠けている『冷徹な知性』と、そして何より大人たちが失ってしまった『汚れなき希望』を兼ね備えた唯一の存在だ。水樹さん、単刀直入に言う。このままでは日本は、計算不可能な破滅へと突き進む」

​岡田は一歩踏み出し、周囲の喧騒を遮るような低い声で続けた。

​「民主党の総裁として、若槻さなえと戦ってほしい。君が、我が党の次期総理大臣候補として、この総選挙の顔になるんだ」

​本郷の街の音が、一瞬、消えたように感じた。

なゆは呆然として岡田を見返した。

「……何を、おっしゃっているんですか。私はただの高校生です。今は受験生なんです。理三を受けて、医者になる。それが私の……私の設計図なんです」

​なゆは、カバンのストラップを指が白くなるほど強く握りしめた。

総理大臣? 政治?

自分は数式で世界を解きたいだけであって、泥沼のような権力闘争に身を投じるつもりなど毛頭ない。

​「岡田さん、帰ってください。私には関係のない話です」

​なゆが背を向けようとした瞬間、岡田の声が、彼女の理性を鋭く刺した。

​「理三に受かっても、国が滅びれば医学を学ぶ場もなくなる。君の同級生たちはどうなる? 君が医学部で解剖学の講義を受けている間、彼女たちは聴診器の代わりに銃を持たされ、見知らぬ異国の地で、名前も知らない若者と殺し合うことになるんだ。君の計算式に、その犠牲は含まれているのか?」

​なゆの足が止まった。

脳裏に、自習室で徴兵のニュースを聞いて泣き崩れていた親友の顔が、フラッシュバックした。

なゆが解いてきた数式の中に、あの日流された「涙」の変数は存在しなかった。

​「……若槻首相の言葉に熱狂している大人たちを、今の私たちが説得することはできない。でも、同じ十八歳の、君にしか届かない言葉がある。君の知性なら、この狂った数式を書き換えられるはずだ」

​沈黙が流れた。

一分。あるいはもっと長い時間だったかもしれない。

天才少女と呼ばれた水樹なゆが、人生で初めて、最も合理的で安全な「最適解」を捨て、泥まみれの「意志」を選択した時間だった。

​なゆはゆっくりと振り返り、岡田の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、すでに迷いはなかった。

​「……わかりました。ただし、二つだけ条件があります」

​岡田が、わずかに目を見開く。

​「一つ、党の公約には私の作成した外交シミュレーションを全面的に採用すること。そしてもう一つ……選挙期間中も、勉強の時間は一分たりとも削りません。総理大臣になって、東大理三にも受かる。それが私の、この戦いにおける絶対の解です」

​岡田の唇が、わずかに戦慄いた。

それは驚きであり、同時に、この少女なら本当に不可能を可能にするかもしれないという、狂おしいほどの期待だった。

​「承知した。……行こう、水樹総理。君の初仕事は、この国を正気に戻すことだ」

​一月の冷たい風が吹き抜ける中、なゆは岡田の差し出した車へと乗り込んだ。

本郷の駅へと向かう受験生たちの群れから外れ、彼女の乗ったセダンは、不夜城のように光る国会議事堂へと向かって加速していった。

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