第2話水樹なゆの幼少期
水樹なゆは、産まれた瞬間からして「規格外」だった。
産声の響きからして、周囲の赤ん坊とは肺活量が違った。病院の分娩室に、まるでオペラ歌手の第一声のような朗々たる声が響き渡った時、担当したベテラン医師は思わず執刀の手を止めたほどだ。
精密検査の結果、医師はなゆの両親――立教大学卒で工務店を営む誠一と、専業主婦の恵子――に向かって、困惑と驚嘆が混じった顔でこう告げた。
「……信じられない。この子は、あらゆる臓器のスペックが人類の限界値に近い。細胞の自己修復能力も、通常の赤ん坊の数倍です。ご両親、覚悟しておいてください。この子は放っておいても、150歳まで生きるかもしれません。現代医学の常識を塗り替える『超健康優良児』ですよ」
「ひ、百五十歳……?」
誠一は手に持っていたお祝いのメロンを落としそうになった。恵子は「それは……年金が足りるかしら」と、あまりに現実離れした宣告に、とんちんかんな心配をするのが精一杯だった。
だが、驚きは肉体だけにとどまらなかった。なゆの脳は、肉体の成長をはるかに上回る速度で、この世界の仕組みを吸い込んでいった。
水樹家は、ごく普通の家庭である。父の誠一は腕のいい大工から工務店を興したが、経営学を学んだわけではない。母の恵子も、おっとりとした性格で、なゆに英才教育を施したわけでもなかった。
しかし、なゆは「突然変異」だった。
5歳になる頃には、小学校から中学校までの学習指導要領を、遊びの延長で全てマスターしてしまった。彼女にとって算数はパズルであり、国語は多世界への旅行ガイドだった。10歳になる頃には、高校の教科書を読み終え、夜な夜な誠一が書斎に置いている工務店の決算書や、建築法規の本を読み耽るようになっていた。
特筆すべきは、彼女が単なる「ガリ勉」ではなかったことだ。
運動神経は抜群で、木登りをすれば猿より速く、走れば中学生を抜き去る。楽器の演奏こそ「時間がもったいない」と習わなかったが、一度聴いた曲は完璧な音程で歌い上げた。カラオケに行けば、昭和歌謡から最新のJ-POPまでを、大人顔負けの表現力で歌い、近所のお年寄りから「なゆちゃんの歌は元気がもらえる」とアイドル扱いされていた。
そして何より、彼女には無敵の武器があった。
どんな頑固な人間をも一瞬で弛緩させてしまう、太陽のような愛くるしい笑顔である。
なゆが7歳、小学1年生になったばかりの冬のことだ。
父・誠一が経営する「水樹工務店」は、かつてない危機に瀕していた。
長年付き合いのあった地元の地主が倒産し、大きな発注がキャンセルされたのだ。材料費の支払いや職人たちへの給料が滞り、誠一の書斎からは夜な夜な重苦しい溜息が漏れていた。
ある晩、なゆはパジャマ姿で書斎のドアを蹴破るようにして入ってきた。
「パパ、そんなに溜息をつくと、せっかくの健康な肺胞が潰れちゃうよ」
「なゆか……。ごめんな、パパ、ちょっと難しい計算をしてるんだ」
誠一が机に広げていたのは、真っ赤な数字が並ぶ資金繰り表と、銀行への融資依頼書だった。なゆは椅子にひょいと飛び乗ると、その書類を数秒間、スキャンするように見つめた。
「パパ、これじゃ銀行は首を縦に振らないよ。固定費の削減案がないし、新規事業の収益予測が甘すぎるもの」
「な、なゆ……?」
なゆは鉛筆を手に取ると、裏紙に猛烈な勢いで図解を書き始めた。
「今の工務店の問題は、職人さんの『手待ち時間』が多すぎること。それと、資材の在庫管理がアナログすぎるわ。パパの技術は一級品なんだから、もっと『高単価・短納期』の隙間市場を狙うべきよ。ほら、見て」
7歳の少女が提示したのは、職人の動線分析に基づいた施工期間の20%短縮案と、近隣の高齢化社会を見据えた「バリアフリー特化型リフォーム」へのシフト戦略だった。
「これを持って、明日の朝一番で銀行に行って。あ、笑顔も忘れないでね。人間は、論理だけじゃ動かない。信頼と、未来へのワクワクで動くんだから」
翌日、誠一が半信半疑でそのメモ(なゆが清書したもの)を銀行に持ち込んだところ、支店長は腰を抜かした。
「水樹さん、これ……本当にあなたが考えたのですか? 業界の構造的欠陥を完璧に見抜いている。この計画なら、追加融資どころか、当行から大手ゼネコンに提携を打診したいくらいだ!」
結局、工務店はV字回復を遂げた。誠一は「うちの娘は神様の使いか、あるいは……」と震えたが、なゆはケロリとして「パパ、お礼にカラオケ連れてって!」と笑うだけだった。
そんななゆが、名門・桜蔭中学校に合格するのは必然だった。
彼女は中学校、高校と常に学年トップの成績を維持し続けた。しかし、彼女の視線は常に「教科書」の先にある「社会」に向いていた。
そして202X年。
なゆが18歳を迎え、東大理三への現役合格を確実視されていたその冬。
日本を、そして彼女の運命を根底から変える「若槻首相の宣戦布告」が、テレビの画面を真っ赤に染めることになる。
「150年生きる予定の私に、18歳で死ねって言ってるの?」
なゆは、自習室でスマホの速報を見つめながら、静かに、しかし強烈な怒りを宿した瞳で呟いた。
これが、のちに「女子高生総理大臣」と呼ばれる少女が、初めて政治に目覚めた瞬間だった。
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