第1話解散総選挙
一月の冷たい空気が、湯島聖堂の傍らに位置する桜蔭高等学校の校舎を包んでいた。
放課後の自習室には、張り詰めた沈黙が流れている。大学入学共通テストを終え、いよいよ二次試験を目前に控えた受験生たちの放つ熱気と、独特の焦燥感。
水樹なゆは、自習室の窓際で、表紙の擦り切れた『鉄緑会』の数学問題集をめくっていた。
彼女の脳内には、無数の数式が音楽の譜面のように浮かんでいる。模試の判定は、高1の時から常に「東京大学理科三類・A」。日本で最も合格が困難とされる東大医学部への切符は、もはや彼女にとって確定した未来の一部に過ぎなかった。
なゆにとって、世界は美しく、そして予測可能な場所だった。
複雑な現象も、適切な変数を与えて数式に落とし込めば、必ず最適解を導き出せる。人々の感情も、社会の動きも、高度な確率論の範疇で平穏に推移していくはずだった。
しかしその日、彼女の信じていた「論理の世界」は、物理的な振動を伴って崩壊を始めた。
校内の静寂を切り裂いたのは、誰かの悲鳴だった。
続いて、マナーモードに設定されているはずの無数のスマートフォンが、一斉に不気味なバイブ音を奏で始める。緊急地震速報とは違う、もっと禍々しい響き。
「……緊急、国民放送?」
隣の席の生徒が震える声で呟いた。
なゆは冷静に端末を起動し、ストリーミング画面を開く。
画面に映し出されたのは、首相官邸の会見場に立つ、現職の内閣総理大臣・若槻さなえだった。
若槻は「日本初の女性総理」として、その美貌と苛烈なまでのリーダーシップで国民から絶大な支持を得ていた。彼女が冷徹な横顔をカメラに向け、口を開く。
『国民の皆様。我が国は今、国家存亡の危機にあります』
その一言で、自習室の空気が氷点下まで下がった。
『度重なる領海侵犯、そして我が国固有の領土への不当な軍事介入。もはや外交による解決の限界を超えました。本日、我が国は断腸の思いをもって、中国に対し宣戦を布告いたします』
衝撃が走った。宣戦布告。
現代の日本において、およそ現実味のなかった言葉が、高解像度のデジタル映像を通じて突きつけられる。しかし、若槻の言葉はそれで終わりではなかった。彼女の瞳には、狂気にも似た「救国の決意」が宿っていた。
『併せて、本日閣議決定された緊急事態条項に基づき、明日付で「国家総動員法」を施行します。十八歳以上の健康な男女すべてを対象とした徴兵制度を即時導入いたします。諸君、国家のために立ち上がりなさい。この国を、そして愛する人を守るために、君たちの命を日本に捧げてほしい』
静寂が支配していた自習室は、一瞬にしてパニックの渦へと叩き落とされた。泣き出す者、呆然とスマホを落とす者、過呼吸を起こす者。
「十八歳以上」――。
それは、今この場所で鉛筆を握っている彼女たち受験生が、明日から銃を握らされることを意味していた。
若槻内閣の支持率は、皮肉にもこの瞬間、爆発的に跳ね上がった。
煽られたナショナリズムと、外敵への恐怖。大手メディアは一斉に「挙国一致」を叫び、与野党の境界線は消滅した。保守もリベラルも、若槻の振るう「愛国」という名のタクトに合わせて、一斉に行進を始めたのである。
だが、この濁流の中で唯一、踏みとどまった男がいた。
最大野党・民主党の代表、岡田克也である。
彼はテレビ中継を通じて、顔を真っ赤にして叫んだ。
「狂気の沙汰だ! 若者の未来を、絶望という名の戦場に投げ出す権利など誰にもない! 若槻総理、これほど重大な決定を、一度も国民に問わずに強行するつもりか! 解散だ! 衆議院を解散し、国民に『戦うか死ぬか』の真の信を問え!」
支持率わずか五パーセント。
消滅寸前と言われていた野党の叫びを、若槻は鼻で笑った。
「よろしい。ならば審判を仰ぎましょう。国民が、私の決断を支持していることは明白です。三週間後の日曜日、日本が新しい歴史を刻む日となるでしょう」
若槻には確信があった。戦時下の高揚感に包まれた国民が、今さら弱腰の野党に票を投じるはずがない。この選挙は、彼女が完全な独裁権力を手にするための、単なる儀式に過ぎないはずだった。
だが、若槻も、そして岡田自身も、まだ気づいていなかった。
この解散総選挙が、湯島の校舎の片隅で、静かに数式を閉じ、眼鏡の奥の瞳に烈火を灯した一人の少女――水樹なゆを、表舞台へと引きずり出すことになることを。
なゆは自習室の窓から、遠く霞む国会議事堂の方角を見つめていた。
彼女の脳内では、すでに新しい数式が猛烈な勢いで組み上がり始めていた。
「百五十歳まで生きる予定の私に、十八歳で死ねって言ってるの?」
その呟きは、誰にも聞こえないほど小さかったが、鉄のような重みを持っていた。
世界を記述する数式が、今、平和を導き出すための「闘争の数式」へと書き換えられた。
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