甘い支配の始まり

放課後、オレンジ色の光が差し込む廊下で、僕は朝日さんに呼び止められた。


「夜宮くん! これ、お弁当箱。洗って返そうと思ったんだけど、夜宮くんのこだわりがありそうだから、軽くゆすぐだけにしたよ。ごちそうさまでした!」


差し出された袋を受け取ると、中から微かに、僕が今朝詰めた出汁の香りがした。


彼女の生活の中に、僕の作った味が入り込んだ証拠だ。


「ありがとう。……明日も、楽しみにしてて」


「うん! あ、そうだ。明日は、どこか景色のいいところで食べない? 今日みたいに佐藤くんたちに邪魔されるのも悪いし……」


彼女は人差し指で頬をかきながら、少し照れたように笑った。


「邪魔されるのも悪い」という言葉。


それは僕の独占欲を肯定し、二人きりの空間を彼女から望んでくれたということだ。


「……いいよ。じゃあ、人気が少ないとこにしようか」


「やった! 楽しみにしてるね!」


彼女が軽やかな足取りで去っていくのを見送りながら、僕は空になった弁当箱を強く握りしめた。


彼女は「美味しい」と言った。


僕の技術と、情熱を、彼女は確かに飲み込んだのだ。


帰宅後、僕はすぐにキッチンに立った。


明日のメニューは何がいいだろうか。


彼女が「これがないと物足りない」と感じるような、中毒性のある味。


家庭的でありながら、他では決して味わえない、僕だけの特別な調合。


玉ねぎを刻む包丁の音が、静かな夜のキッチンに規則正しく響く。


(もっと、僕の味を教え込んであげなきゃ)


他の誰かが焼いた肉の匂いや、コンビニの濃い味付けに、彼女の舌が拒絶反応を起こすくらいに。


僕が作ったものだけが、彼女にとっての「正解」になるまで。


鍋の中で踊るスパイスの香りを嗅ぎながら、僕は独り、満足げに口角を上げた。


愛情という名目でコーティングされた、この歪な執着に、彼女はいつまで「男らしくていい」と笑っていられるだろうか。


冷蔵庫のドアに貼られた、彼女が好きだと言っていた食材のメモ。


それを眺める僕の瞳には、夕暮れ時の教室で見た彼女の笑顔が、呪いのように焼き付いていた。



翌日、約束した昼休み。


僕たちは喧騒を離れ、旧校舎の裏にある、今は使われていない小さな藤棚の下にいた。


「わあ、ここ静かでいいね! 秘密基地みたい」


朝日さんはベンチに座り、嬉しそうに足を揺らしている。


僕は昨日よりもさらに気合を入れた、特製のお弁当を差し出した。


今日のおかずは、彼女が「苦手」と言っていたピーマンを細かく刻んで混ぜ込んだ、極上のキーマカレー。


スパイスの配合は、彼女の好む甘みを引き立てつつ、後を引く微かな刺激を忍ばせてある。


「はい、今日の試作品。昨日の肉じゃがより、少しだけ癖があるかもしれないけど」


「わ、今日も豪華! いただきます!」


彼女がスプーンを運び、一口。


その瞬間、彼女の動きが止まった。


僕は心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、彼女の反応を待った。


「……すご。これ、本当にピーマン入ってるの? 私、全然気にならない。っていうか、むしろこの味が好き……」


彼女は夢中でスプーンを動かし始めた。


その姿を見て、僕は確信した。彼女の味覚は、着実に僕の味に染まり始めている。


「夜宮くん、なんか……魔法使いみたいだね」


彼女が不意に手を止め、少し火照った顔で僕を見上げた。


「魔法? そんな大袈裟なものじゃないよ」


「ううん、魔法だよ。だって、今日のお昼休みが近づくにつれて、私、お腹が空くっていうより、夜宮くんのご飯が食べたくてソワソワしちゃったんだもん。授業中もグミを食べて気を紛らわそうとしたんだけど、なんだか全然落ち着かなくて。こんなの、初めてだよ」


(……いい兆候だ)


胃袋を掴むとは、こういうことだ。


ただ美味しいものを食べさせるのではない。


僕の味以外を「物足りない」と感じさせる。


彼女が放課後、コンビニで買い食いをしようとしたとき、あるいは週末に家族と外食をしたとき、ふと「夜宮くんの料理なら、もっとこうだったのに」と思い出させる。


それが僕の狙いだ。


「朝日さん、口元にソースがついてるよ」


僕はポケットから清潔なハンカチを取り出し、彼女の唇の端をそっと拭った。


昨日は我慢したはずの距離。


けれど、今日は彼女も拒まない。


「あ……ありがとう」


彼女の頬が朱に染まる。


その恥じらいも、僕の味に依存し始めている自覚から来ているのだとしたら、これほど愉快なことはない。


「……ねぇ、夜宮くん。もし、夜宮くんが卒業しちゃったり、お弁当作ってくれなくなったりしたら……私、どうなっちゃうんだろうね」


彼女が冗談めかして言った言葉に、僕はわざと深く、優しく微笑んだ。


「そんな日は来ないよ。君が望むなら、僕はどこまでだって君の食事に付き合うから」


嘘は言っていない。


君を僕なしではいられない体にするまで、僕はこのキッチンから君を支配し続ける。


「……そっか。良かった」


安心したように微笑み、最後の一口を名残惜しそうに食べる彼女。


その首筋を、僕は慈しむような視線でなぞった。


太陽のような彼女が、僕という「味」の檻に自ら入っていく。


次のスパイスは、もう少し強くしてもいいかもしれない。

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隣の美女の胃袋は掴めても、恋心は掴めない!? あおざかな @aoza0720

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