その町では何も起こらない
ノマノタロウ(ex 野々花子)
その町では何も起こらない
好きな映画を訊かれたら「田舎で何も起こらない映画」と答えている。特にそれが、ひと昔前のアメリカやヨーロッパの田舎町なら最高だ。だだっぴろい麦畑や傾きかけた古い家。口うるさい母親と、存在感のない父親。くたびれた女主人が営むダイナーと、そこで昼間から飲んだくれている男。古い慣習を妄信的に守る老人と、狭い町で王様気取りの不良警官。そんな話の通じない大人ばかりに嫌気がさし、「いつか、こんな町から出ていってやる」と思いながら、何も起こらない日々を無為に過ごしてしまう少年少女。そういう映画に滅法弱い。
原体験となったのは、きっと『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』だ。
1985年に作られたスウェーデン映画で、監督はラッセ・ハルストレム。少年イングマルは、母の病気がきっかけで、田舎町に住む叔父に預けられる。母が恋しいイングマルは田舎になじめず、同級生にもからかわれるが、叔父一家や町の人々との交流を通して、徐々に心を開き明るくなっていく。細やかな心の動きはあっても、大きな事件はない物語だ。スウェーデンの田舎で何も起こらない。
印象的なのは、イングマルが辛い時に夜空を見上げてつぶやくセリフだ。
「スプートニク号に乗せられた犬のライカに比べたら、僕は幸せだ」
米ソ宇宙開発競争の中で、ソ連が打ち上げた人口衛星スプートニク2号に、ライカという名前の犬が生きたまま乗せられた。ライカは地球軌道を周回した世界初の犬となったが、生還させる技術はなく、そのままひとりぼっちで死んでしまった。イングマルは田舎町にひとりぼっちで、母に会いたくても帰れず、母が病気で死んでしまったらどうしようと寂しい気持ちを抱えながら、それでも、「スプートニク号のライカに比べたら、僕はマシだ」とつぶやく。
この映画を初めて観たのはたしか小学生の頃、父がテレビ放送を録画したビデオだった。最初は、お姉さんのヌードシーン目当てで観ていた(イングマルもヌードをのぞこうと屋根裏に忍び込む)が、繰り返し観ているうちに大好きな映画になった。四十代になった今でも、ずっとマイベストムービーであり続けている。
ラッセ・ハルストレム監督は他にも、「田舎で何も起こらない映画」をたくさん撮っている。最も有名なのは、まだ若いジョニー・デップと、幼いレオナルド・ディカプリオが兄弟役で共演した『ギルバート・グレイプ』だろう。雑草だらけのだだっぴろい土地、行くところと言えばスーパーマーケットくらい。若さを持て余し鬱屈した兄と、発達障害の弟。二人の日常はいつもどんよりと曇っている。アイオワ州の田舎で何も起こらない。
もう少しハッピーな作品では『ショコラ』がある。画面越しに見ているだけでも凍えそうな山間部にある、戒律を厳しく守る清貧の町。そこにやってきた母娘がチョコレート屋を開き、町の人々の心を温めて溶かしていくという、とても簡潔でわかりやすいストーリーだ。とにかく、町がすこぶる寒そうなところが良い。寒ければ寒いほど、ホットココアが沁みるだろう。フランスの田舎で何も起こらない。
小学生から大学生の間に、これらのラッセ・ハルストレム作品を観まくったことが、僕の「田舎で何も起こらない映画が好き」という嗜好をつくったことは間違いない。
大学生の頃は、レンタルビデオ屋でたくさんの映画を借りて観たが、その中でも特に琴線にふれたのが、テリー・ツワイゴフ監督作『ゴースト・ワールド』だ。
二人の少女イーニドとレベッカは、高校卒業を控え、退屈な故郷を出ていって自由に暮らすことを夢見ている。ナード感が強く夢見がちなイーニドをソーラ・バーチが、若干現実的な考えをもつレベッカをスカーレット・ヨハンソンが演じている。二人はちょっとした悪戯をきっかけに、スティーヴ・ブシェミ演じるサブカル中年男シーモアと知り合う。最初は彼をからかっていたが、だんだんイーニドが彼にのめり込んでしまい……というストーリー。
閉じられた町の中で、閉じられた関係性がぐるぐると堂々巡りする。「ここではないどこかで、特別なことが起こるはず」という十代の無邪気さと、「どこに行っても特別なことは起こらない」という中年の諦念が押し合い引き合いし、互いを傷つけ合っていく。彼らの心の中は嵐の夜のように激しい。でも、どれだけ彼らが惹かれ合い傷つけ合っても、退屈な町は何一つ変わらない。ロサンゼルス郊外の田舎で何も起こらない。
他にも、『バベットの晩餐会』『レディバード』『アメリカン・スリープオーバー』『アイ・ライク・ムービーズ』なんかが、僕の中で「田舎で何も起こらない名作映画」としてラインナップされている。
「何も起こらない」と繰り返しているが、もちろんどの映画にも起承転結があり、登場人物たちの心の動きがある。それでもこの映画たちに共通するのは、人生のハイライトになり得ない時間を描いていることではないだろうか。どの物語も、長い人生の中でやがて忘れられてしまうような数日間や、その時だけの出会いを描いている。瞬間的には心を大きく動かしても、いずれ記憶の中に埋もれてしまうような出来事。忘れてしまうことが約束されているような日々。もしかしたら、人生はそういう日々の集積なのかもしれない。
こうした映画が好きなのは、前述の通り、幼い頃からラッセ・ハルストレム作品に耽溺していたことが大きいのだが、もう一つの理由として、自分の原風景と重ねてしまっていることもあるだろう。
僕は京都府北部の海沿いの田舎町で生まれ育った。山陰地方の鬱蒼とした山々と、波の荒い日本海に囲まれているせいか、一年中天気が悪い。だいたい曇りか雨だ。特に冬はひどい。曇りばかりで、すぐに雨が降る。十二月の後半になると雨は雪になる。真っ白なパウダースノウではなく、みぞれまじりの水っぽい雪だ。だから、積もると道路の塵や泥と混ざって、ところどころ石炭みたいに黒くなる。雪が降るのは十二月から二月だが、冬は長く、十月半ばから四月の初めまで寒さが続く。
アメリカの田舎のようにだだっぴろくはない。スウェーデンの田舎のように氷が張った湖もない。フランスの田舎のように石造りの教会もない。それでも、僕は映画の中で観る田舎町と、自分の生まれ育った町がどことなく似ているように感じていた。
例えば、町を歩く人が少ないところ。ショッピングセンターくらいしか行く場所がないところ。老人が多く若者が少ないところ。冬が厳しいところ。そして、一年中曇っているところ。
僕は今でも、心身が疲れて行き詰まると、一人で故郷の町に戻って、数日間何もせずに過ごすことがある。そこではささいな事件も、僕の行き詰まりを解消する出来事も起こらない。何も起こらない田舎町を、ひたすら散歩するだけだ。海、ショッピングセンター、ほとんど人の通らない交差点、シャッター通りになった商店街、空き家になった友達の家、幹線道路の出口付近にぽつんと建つコンビニ。
しかし、その数日間はたしかに僕を回復させ、日常に戻してくれる。日常に戻ると、すぐにその数日間のことは忘れてしまい、ただ、何もなかったという感覚だけが残る。
その感覚は、ここで挙げてきた映画を観た後に感じる気持ちに似ている。細かい話の筋よりも、寂しさや虚しさの手触りのようなものだけが残るのだ。そして、その寂しさや虚しさはどこかさっぱりとしている。乾いていて、不愛想で、でもどこか晴れやかで、寂しいのも虚しいのも当たり前だ、という顔をしている。
だから僕は、「田舎で何も起こらない映画」が好きなのだ。
その町では何も起こらない ノマノタロウ(ex 野々花子) @nonohana
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