第21話 求不得苦
「はーい、席についてー」
朝の教室は、いつも通りのざわめきで満ちていた。
眠そうな声と、机を引く音と、誰かのため息。
三連休が明けたばかりの空気は、少しだけだるい。
担任――藍澤まどかは、教卓に肘をつきながら軽くあくびを噛み殺した。
「小テストはしません。今日は雑談……じゃなくて連絡だけ」
その瞬間、数人が露骨に安堵する。
「先生それ、毎回言ってません?」
「言ってる。だって平和が一番でしょ」
まどかは笑って、黒板にさらさらと予定を書いていく。
その横顔は、どこにでもいる普通の先生――に見えた。
ただ一つだけ。
机の隅に置かれた、やたら大きい紙袋。
中身は、コンビニの菓子パンとおにぎりと、甘い匂いのする何か。
「……先生、お昼多くない?」
女子が半笑いで言う。
「教師って仕事はストレス溜まるのよー」
まどかは悪びれず肩をすくめた。
「親も同僚も、久々会った友達まで結婚とか将来とか押し付けてくるしさ」
「食べてる時が一番幸せ。以上」
教室がどっと笑う。
――それを、五右衛門はぼんやり眺めていた。
(……平和だな)
昨日までのあの焦げた匂いも、サイレンも、どす黒い炎も。
学校という箱の中では、嘘みたいに遠い。
でも。
遠いだけで、消えたわけじゃない。
五右衛門は、机の下で拳を握る。
(このままじゃ……また守れない)
視線を上げると、隣の列の澪がこちらを見ていた。
その目が、いつもより少しだけ落ち着かない。
「……何?」
小声で聞くと、澪は肩をすくめて笑った。
「あとで!」
いつもの軽さ。
でも――どこか、秘密を抱えている感じ。
それが、妙に気になった。
休み時間。
五右衛門が席を立って廊下へ出ようとした時、袖をちょん、と引かれた。
振り返る。
澪だった。
「おまえざきくん」
澪は周囲をちらっと見て、少しだけ距離を詰めた。
心なしか、いつもより近い。
「ねぇ……」
声が、やたら小さい。
「わかっちゃったかもしれないの!」
「……何が?」
澪は両手を胸の前に持ってきて、ぽわーっと広げるジェスチャーをした。
「昨日の夜さ、ぽわーーって感じで……なんか出てるの!」
「出てる?」
「うん! あったかいの!」
澪は真剣なのに、言ってることがふわふわしている。
五右衛門は思わず眉を寄せた。
「……それ、
「たぶん!」
澪は、嬉しそうに頷いた。
「ね、ね! 今日、支部で見せる!」
「……おい、声」
「ごめん!」
澪は口を押さえて、くすくす笑った。
そのやり取りを――
教室の前方、教卓の近くから、誰かが静かに見ていた。
藍澤まどか。
まどかは何も言わない。
ただ、笑っているようで、笑っていない目で、二人を一瞬だけ捉えて――すぐに黒板へ視線を戻した。
放課後。
四人は、いつものように一緒に教室を出た。
一条
五右衛門
澪
三谷ひかり
(……いつの間に、こういう並びが当たり前になったんだ)
不思議な感覚。
校門を抜け、駅へ向かう道。
「今日さ、澪」
一条が軽く言う。
「昨日より元気じゃない?」
「え、そう?」
澪は誤魔化すように笑って、五右衛門をちらっと見る。
「……ちょっとだけ、ね」
三谷が、その会話に小さく混じった。
「私も……昨日よりは、動ける気がする」
声はまだ弱い。
でも、目は昨日より強い。
「強くなりたいんだよね、ひかりちゃん」
澪が、さらっと言った。
その言い方が自然すぎて、三谷は一瞬驚いたあと、頷く。
「……うん」
五右衛門は、その横顔を見る。
(……みんな、変わり始めてる)
自分も変わらなきゃいけないのに。
――歩いている途中。
少し後ろの方で、視線を感じた。
振り返ると、遠くにまどかがいた。
たまたま同じ道?
いや、違う。
目が合った気がして、五右衛門は一瞬だけ足を止める。
まどかは、にこっと笑って手を振った。
「先生?」
澪が不思議そうに言う。
「偶然じゃない?」
一条が軽く肩をすくめる。
「先生も帰り道なんだろ」
そう言われればそうだ。
それなのに、胸の奥がざわつく。
(……気のせい、か)
四人はそのまま駅へ。
まどかは、少し離れた場所で立ち止まり、彼らの背中を見送った。
その表情は、さっきまでの“だるそうな先生”じゃない。
何かを測る目。
何かを欲しがる目。
新宿支部。
訓練室に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
学校の延長のようで、どこか違う。
静かで、張りつめていて、逃げ場がない。
黒川園美が、全員を見渡す。
「じゃあ、始めましょう」
その声は淡々としていた。
「基礎体力と組手」
園美は続ける。
「それから――」
視線が、三谷ひかりに向いた。
「三谷さんは、今日から恋能の制御も並行してやるわ」
三谷の肩が、わずかに強張る。
「……はい」
「拒絶は、強いけれど」
園美は静かに言う。
「強いままじゃ、使いこなせない」
「守るために“出す”力を、ちゃんと選びなさい」
三谷は、ゆっくりと頷いた。
「……やります」
五右衛門は、その横顔を見る。
(……強いな)
逃げない、という強さ。
それは、先日までの彼女にはなかったものだ。
「まずは準備運動から」
園美の合図で、訓練が始まる。
腕を動かし、足を動かし、息を整える。 基礎的で地味な動き。
だが――
いろはは、やはり一段階上だった。
動きに無駄がなく、体重移動が滑らかだ。
「……すごい」
澪が、小さく呟く。
「年下なのに……」
「自覚してるかどうかの差よ」
園美が答える。
「
「だから、焦らなくていい」
その言葉に、澪は一瞬だけ、胸に手を当てた。
そして――
「あの……」
澪が、恐る恐る手を挙げる。
全員の視線が集まる。
「……見てもらいたいんですけど」
園美の眉が、わずかに動いた。
「いいわ」
「やってみなさい」
澪は、深く息を吸う。
昨日の夜。 ぽわっとした、あの感覚。
(……好きなこと)
(……好きな人)
自然と、五右衛門の顔が浮かぶ。
「……えっと」
澪は、そっと目を閉じた。
次の瞬間。
空気が、わずかに揺れた。
澪の周囲に、柔らかい“何か”が広がる。
熱ではない。 圧でもない。
ただ―― 包むような、あたたかさ。
「……!」
三谷が、目を見開いた。
「これ……」
「
園美が、短く言う。
澪は驚いたように、自分の手を見る。
「……ほんとだ」
「昨日より……はっきり分かる」
五右衛門は、その姿をじっと見ていた。
(……すごい)
派手じゃない。 でも、確かに“強い”。
「いいわ」
園美は、はっきりと言った。
「これは立派な“自覚”よ」
澪は、少し照れたように笑う。
「えへへ……」
「そのまま少し組手をしてみましょう」
園美の攻撃に対して、習ったばかりの護身術で対応する。
押されてはいるが、
明らかに今までの澪とは違った動きをしていた。
一方で――
一条は、黙ってその様子を見ていた。
(……出ない)
集中しても、何も変わらない。
(……おかしいな)
自分は、動けている。
反応も、悪くない。
と思う。
(……でも)
それは、
胸の奥に、微かな焦りが芽生える。
その焦りは一条だけではなく、
五右衛門の心にも芽生えていた。
(澪…すごいな)
(一条も…)
(園美さんに食らいついていけてる)
(おれは…?)
(もっと…頑張らなくちゃな)
それぞれの“差”が、 少しずつ、はっきりし始めていた。
その頃。
支部から、そう遠くない場所。
藍澤まどかは、足を止めていた。
紙袋を開き、菓子パンをひとつ。 それから、もうひとつ。
「……今日も疲れたなあ」
誰に向けるでもない独り言。
口に運んでも、 胸の奥は、満たされない。
空になりかけた袋を見て、 まどかは小さく笑った。
「足りないのよね、ほんと」
夕暮れの中。
それぞれの“求めるもの”は、 まだ噛み合っていなかった。
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