第13話 引き金。

朝の教室は、いつも通りのざわめきで満ちていた。


「おはよー」


「おはー」


「今日の小テストやばくね?」


雑談の中に、軽い悲鳴が混じる。


澪が席に着き、隣の列に顔を出す。


「おまえざきくん、おはよ」


「……おはよ」


五右衛門の返事は短い。

いつも通りだ。


一条は少し離れた席で、机の上に資料を広げていた。

生徒会の書類だろう。やたら几帳面に並べている。


「……一条、朝から真面目だな」


五右衛門が声をかけると、一条は顔を上げて笑った。


「真面目というか、期限が今日なんだよ」


「一条くん、生徒会の副会長のくせに期限ギリギリなの?」


澪が茶化す。


「人聞き悪いな。余裕持ってやってる」


一条は澪に軽く手を振ってから、五右衛門を見る。


「昨日の放課後、変な空気あったろ」


五右衛門の眉が動く。


「……気づいてたのか」


「気づくよ。あんなに露骨なら」


一条は小さく息を吐く。


「変な感情の波。……嫌な感じだった」


澪が目を丸くした。


「え、わたし気のせいかと思った」


「気のせいじゃない」


一条は断言する。


「昨日からずっと、薄く続いてる」


その瞬間だった。


教室の奥で、椅子が倒れる音がした。


ガタン——。


「……っ」


声にならない声。

誰かが息を呑む。


五右衛門と一条が同時に立ち上がる。


「何だ?」


教室の奥。

女子生徒、三谷ひかりが立っていた。


肩が震え、目は赤い。

周りのクラスメイトが距離を取っている。


「……近づかないで」


三谷ひかりが絞り出すように言った。


「お願い、来ないで……!」


一歩、誰かが近づこうとした瞬間。


空気が弾けた。


「っ——!」


見えない衝撃が走り、男子生徒が壁に叩きつけられるように転ぶ。


「え……なにこれ」


澪が青ざめる。


五右衛門は思わず一歩踏み出した。


「……恋能が暴走してる?」


その言葉に、一条が首を振った。


「たぶん違う」


「え?」


「あれは暴走じゃない」


一条は三谷の様子を見つめたまま続ける。


「たぶん、あれは——」


一条の声が低くなる。


「まだ自分の恋能を制御できてないだけだと思う」


五右衛門は目を見開いた。


「制御……?」


「誰かに急に力を持たされたとか」


一条は唇を噛む。


「心の準備も、自覚もないまま」


三谷の肩が、びくりと跳ねる。


「いや……いやだ……」


「私、そんなつもりじゃ……」


言葉が途切れ、涙が落ちる。


「……嫌だよ……!」


また空気が跳ね、机が揺れた。


澪が思わず後ずさる。


(……怖い)


怖い、のに。


(でも、あの子……泣いてる)


五右衛門の胸が、静かに反応する。


ゼロが——“拒絶”に反応している。


「……俺が行く」


五右衛門が言った。


一条はすぐに頷く。


「頼む」


「でも、傷つけるなよ」


「わかってる」


五右衛門は深く息を吸って、一歩踏み出した。


「大丈夫だ」


声は、できるだけ静かに。


三谷が首を振る。


「来ないで……!」


「俺は、お前を傷つけない」


五右衛門は距離を詰める。


見えない壁が、ひりつく。


空気が押し返してくる。


(……強い)


でも、ゼロは——逃げない。


五右衛門が手を伸ばした瞬間。


音もなく、何かが“ほどけた”。


空気の壁が、崩れる。


三谷の身体から、力が抜ける。


「……え……?」


膝から崩れ落ちた彼女を、周りの空気がようやく受け止める。


「……ごめん……」


女子生徒は震える声で言った。


「ごめんなさい……っ」


「……悪いのは、君じゃない」


五右衛門はそれだけ言って、視線を上げた。


教室の窓の外。


廊下の向こう。


(……見られてる)


そんな気配がした。


一条も同じ方向を見る。


「……今の、誰か見てた気がしないか」


五右衛門は答えない。


澪だけが、胸の奥のざわめきを感じていた。


(……なにか、来る)


三谷の周りに駆け寄ったクラスメイトが、震える声で言う。


「大丈夫? 何があったの?」


女子生徒は首を振る。


「……わかんない」


「急に、頭が……」


「嫌なこと、いっぱい……」


言葉にならない嗚咽。


そして、気を失ってしまった。


一条が、ぽつりと言った。


「……力ってさ」


「やっぱり、ちゃんと使える人が使えなきゃだめだよな」


五右衛門は、拳を握りしめた。


(誰がやった)


(どうやって)


その答えは、まだ出ない。


---


夜。


部屋は静かだった。

窓の外には、街の光が滲んでいる。


机の上に広げたノートを、指でなぞる。


「……やっぱりさ」


誰に向けるでもなく、呟く。


「力って」


少しだけ間を置いて、続けた。


「準備できてないやつが持つと、

だいたい、碌なことにならない」


小さく息を吐く。


「……だから…」


画面の光が、顔を照らした。



画面の向こうで、

ひとつ、通知が消えた気がした。


---


日常は、まだ壊れていない。


だが確実に、

歪みは広がり始めていた。

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