第12話 静かな異変

朝のホームは、いつもと変わらない。


電車を待つ人の列。

スマホを見る顔。

流れるアナウンス。


五右衛門は、いつもの電車、いつものドアから降りた。

人混みの中でも、無意識に周囲を見渡してしまう癖がある。


(……平和、だよな)


そう思った直後だった。


胸の奥が、わずかにざわつく。

理由のない違和感——いや、“理由が見えない”だけだ。


笑っている人。

不機嫌そうな人。

やけに距離の近い男女。

どれも普通だ。


それなのに。


(……感情が、濃い)


人の心が、必要以上に前へ出ている。

薄い膜の向こうで、誰かが空気をかき混ぜているみたいに。


「……おまえざきくん?」


そう遠くない場所から声がした。


澪が、首をかしげてこちらを見ている。

いつもの明るい顔……のはずなのに、今日は少しだけ真剣だ。


「どうしたの?」


「いや……なんでもない」


五右衛門はそう答えたが、視線は無意識にホームの先を追っていた。


(なんだこれ)


(変な感じだ)


言葉にできない。

言葉にした瞬間、馬鹿みたいに聞こえそうで。


澪は五右衛門の横顔を見ながら、心の中で首を傾げる。


(おまえざきくん、たまに、急に遠くを見る)


(……なんだろ。あれ)


理由はわからない。


でも、その瞬間だけ。

自分の胸の奥が、少しだけ——きゅ、と縮む。


(……ごえもんくん)


その呼び方を、澪は誰にも聞こえないところへしまった。


電車が到着し、人の波が動き出す。

澪は流れに押されながら、五右衛門の袖のあたりを軽くつまんだ。


「ほら、行こ」


「……ああ」


それだけのことなのに、

澪はほんの少し安心した気がした。



---


昼休み。


教室は騒がしい。

机を寄せて談笑する輪、購買のパンを見せびらかす声、窓際でスマホを覗き込む集団。


五右衛門はいつもの席で、ぼんやりと窓の外を見ていた。


(今日、変だ)


朝だけじゃない。

さっきも——廊下ですれ違った男子が、妙に苛立っていた。


(……イライラが伝染するみたいに)


澪が戻ってきて、机の端に肘をついた。


「ねえ、おまえざきくん」


「ん?」


「さっきから、なんかぼーっとしてない?」


「してない」


「してるって」


澪は笑う。

笑いながら、少しだけ覗き込む。


五右衛門は視線を逸らした。


「……気のせいだ」


「ふーん?」


澪はそれ以上は追及しなかった。

ただ、ほんの少しだけ眉を寄せる。


(……やっぱり、変)


(でも、言っても絶対認めないやつ)


そんなことを思いながら、澪は席に座り直した。



---


放課後。


校内はいつも通りだった。

部活へ向かう足音、廊下の笑い声、昇降口のざわめき。


けれど——


「ねえ、あの人……」


「さっきから、様子おかしくない?」


小さな囁きが、廊下の端で生まれる。


五右衛門は、その視線の先を追った。


そこにいたのは、笑っているはずなのに、どこか壊れた目をした男子生徒。

友達に囲まれているのに、表情が薄い。


(……なんだ、あれ)


胸の奥が、微かに反応する。


ゼロが——“何か”を嫌がっている。


「おまえざきくん?」


澪が小声で呼ぶ。


「……あれ」


五右衛門は顎で示した。


澪が視線を向ける。


「……普通に笑ってるけど?」


「……いや」


五右衛門は言葉に詰まる。

説明できない。


「……変なんだ」


澪は少し黙って、男子生徒を見つめた。


その瞬間、男子生徒がふいにこちらを見た気がした。


目が合う——ほんの一瞬。


澪の背筋が、ぞくりとする。


(……なに、今の)


(なんか、見られた?)


男子生徒はすぐに視線を外し、友達の輪の中に戻った。

なのに、澪の心臓だけが少し速い。


五右衛門は小さく息を吐いた。


(やっぱり、変だ)


——まだ、何も起きない。


でも確実に、何かが近づいている。



---


――同じ頃。


恋保・都内観測室。


モニターに映る数値が、一定のリズムで上下していた。


「平均値は正常……だが」


黒川は腕を組む。


「局所的に、感情密度が高すぎる」


部下が報告する。


「事件には、まだ繋がっていません」


「ええ。だから厄介なの」


黒川は画面を指でなぞった。


「恋能を、抑えず、隠さず……むしろ解放している」


一拍置いて、静かに言う。


「……堕恋者のやり方よ」


画面の数値が、またひとつ上がる。


日常は、まだ壊れていない。


だが確実に、

歪みは広がり始めていた。

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