最終章 今も走り続けている
退院した日の夕方、空は低く曇っていた。
病院の玄関を出た瞬間、美咲は、外の空気が思っていたよりも重いことに気づいた。世界は何も変わっていない。人は歩き、車は走り、遠くで子どもの声がする。
それなのに、自分だけが、どこか置き去りにされたような感覚があった。
家に戻ると、母は無理に明るく振る舞い、父はいつもより静かだった。
夕食は、ほとんど味がしなかった。
「今日は、早めに休みなさい」
母の言葉に、美咲は頷いた。
自室に戻ろうとして、足が止まる。
気づけば、体が自然と、ガレージのある方へ向いていた。
行くつもりはなかった。
確かめる必要も、ないはずだった。
それでも、美咲はシャッターの前に立っていた。
父は処分すると言っていた。
業者を呼ぶのは、数日後だとも。
今なら、まだある。
そう思った瞬間、自分が何を期待しているのかを理解してしまい、胸が痛んだ。
シャッターを上げる音は、以前よりも静かに感じられた。
中は、変わらない。
埃の匂い、薄暗さ、静寂。
兄のバイクは、そこにあった。
事故の前と同じ位置。
何事もなかったかのように。
美咲は、ゆっくりと近づいた。
手は伸ばさない。ただ、見るだけ。
メーターに視線を落とした瞬間、呼吸が止まった。
文字が、あった。
淡く、しかし確かに。
『今も走り続けている』
一瞬、視界が歪んだ。
文字を見間違えたのかと思い、目を擦る。
だが、消えない。
表示でも、反射でもない。
そこに刻まれている。
美咲は、後ずさった。
「……やめて」
声は、かすれていた。
答えはない。
エンジンも、音を立てない。
それでも、確信だけが残る。
兄は、ここにいる。
形としてではなく、意思として。
走り続けていたのは、バイクではない。
止まれなかったのは、兄だった。
美咲は、ゆっくりとシャッターを下ろした。
最後まで、振り返らなかった。
それから、ガレージの扉は開けられることがなかった。
業者が来て、バイクは運び出された。
その間、美咲は自室にこもり、物音が消えるまで耳を塞いでいた。
バイクがなくなったあとも、ガレージは空にはならなかった。
何かが抜け落ちたまま、残っている。
夜、時折、遠くでエンジン音が聞こえる気がする。
風の音か、車の走行音かもしれない。
美咲は、確かめに行かない。
もう、走らない。
それが、兄との最後の約束のような気がしたから。
けれど――
もし、あの言葉が本当だとしたら。
今も、どこかで。
誰にも止められないまま。
兄は、走り続けている。
お兄ちゃんのバイク 霧標本 @kirihyohon
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